室町幕府最後の将軍・足利義昭。彼には何人か姉妹がいましたが、その中で最も兄・足利義昭に振り回されたであろう女性が1人います。名前すら伝わらない彼女は、兄によってその寿命を縮めることになったのかもしれません。
足利義昭の妹、三好家に嫁ぐ
足利義昭には何人か姉妹がいました。1人は義昭同様に出家し、宝鏡寺の尼僧となっていました。室町幕府将軍の娘の多くは出家していましたが、この時代には政略的なものもあったためか、結婚していた女性も多いようで、若狭国の武田義統や公家の烏丸光宣に嫁いだ姉妹もいました。
今回ご紹介したいのは、足利義昭の妹で、三好家の後継者となった義継に嫁いだ女性です。
この女性は名前すら伝わっていません。また足利義昭の同母妹なのか、異母妹なのかもわかりません。もしも同母の妹だとしたら、彼女の母は足利義晴正室慶寿院(近衛家出身)となりますね。将軍と公家のトップの家柄出身の正室との間に生まれた、とても良い血筋の姫君ということになります。
足利義昭の妹が嫁いだのは、三好義継です。
三好義継は三好長慶の弟・十河一存と九条家の女性との間に生まれ、三好長慶の嫡男義興早逝後に三好家の後継者となりました。三好家の跡を継いだ後に、三好義継は三好三人衆と松永久通(松永久秀の息子)らとともに上洛、足利義輝を弑逆します。その後、松永久秀と三好三人衆の争いに振り回されますが、織田信長が足利義昭を擁して上洛した後は、松永久秀同様に織田信長に与します。
将軍暗殺から四年後の1569(永禄十二)年の3月に、織田信長の仲介のもとで三好義継は足利義昭の妹と結婚します。
足利義昭の妹の年齢は分かりません。
父親の足利義晴は1550(天文十九)年に亡くなっていますから、おそらくそれより前には生まれていると思われます。夫となる三好義継は1549(天文十八)年生まれですから、彼女は義継より年上だった可能性が高いのではないでしょうか?
兄義昭は1537年生まれですから、三好義継と一回り以上年齢が離れている……ということもなさそうですね。足利義昭の妹は結婚したとき、20代、三好義継よりも少しだけ年齢が上の姉さん女房だったと思われます。
足利義昭の妹と三好義継の結婚生活
足利義昭の妹の結婚生活がどのようなものだったのかはわかりません。
彼女からすれば兄義輝、母(義母?)慶寿院の死の原因となったような人物との結婚ですから、最初はかなりつらいものだったのかもしれません。
ただ、三好義継の母は九条家出身ですし、足利義昭の妹の母(義母?)も近衛家出身ですから、意外と仲良くなっていたかもしれませんよね。彼女は結婚生活の中で「仙千代」と呼ばれる三好義継の息子を生んだと言われています。
1573(天正元/元亀四)年、足利義昭が信長によって京から追放され、室町幕府は滅亡しました。正室の足利義昭の妹の縁もあり、三好義継は追放された義昭を自らの居城である若江城で庇護しました。……この行為が、三好義継の運命を終わりへと向かわせることになります。
足利義昭の妹(三好義継正室)の死
織田信長は、前将軍足利義昭をかくまった三好義継を許しませんでした。前将軍足利義昭は京を追われながらもなおも反信長包囲網を布こうと暗躍していました。そうなった暁には、三好義継は真っ先に織田信長に敵対するでしょう。
織田信長の行動は迅速でした。1573(天正元)年11月、家臣の佐久間信盛によって三好義継討伐の軍が攻め込んできました。(前将軍足利義昭はこの少し前に堺に落ち延びていました。)
三好家内部ではさらに家臣の分裂、織田軍への内通まで発生し、籠城も失敗します。ここに、畿内にて権力をふるった三好家の滅亡は決定的なものとなりました。
御女房衆・御息達みなさし殺し、切つて出で、余多の者に手を負はせ、其の後、左京大夫殿、腹十文字に切り、比類なき御働き、哀れなる有様なり。
『信長公記』より
足利義昭妹は夫三好義継と、子供「仙千代」と一緒に亡くなったようです。一説には我が子、夫ともども自害したともいいます。
また、『信長公記』によると、夫義継に刺殺されたとも言われています。
時は1573(天正元)年11月、彼女の結婚生活はわずか4年ほどで終焉を迎えました。
ちなみに足利義昭妹の死のわずか2カ月ほど前に、近江で浅井家が滅亡に追い込まれます。この時、浅井家に嫁いでいた織田信長の妹、お市の方は三人の娘とともに兄の信長の元に戻っています。
また、兄の足利義昭の側室・さこの方も織田信長の庇護下にありました。
足利義昭の妹も、もしかしたら、兄義昭のもとに赴くことや、織田信長のもとに向かうこともできたのかもしれません。(足利義昭の妹と三好義継の結婚は織田信長の仲介のもとで行われていますので……)しかし、彼女は若江城から動きませんでした。
足利義昭の妹の死は、はたして夫によって無理やり道連れにされたのか、それとも彼女自身の意思で夫と運命を共にすることを選んだのか、それは永久に分かりません。ただ個人的には、彼女自身の意思であったと、そう思いたいところではあります。
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