来年の大河ドラマ「青天を衝け」で、草なぎ剛さんが演じる徳川慶喜。
渋沢栄一の生涯を語る上で忘れてはならない人物です。
そんな彼の奥さんは、どのような人物なのでしょうか?
調べてみました。
婚約者:一条輝子
もともとは醍醐忠順の娘でしたが、摂家の一条家の養女となりました。ちなみに明治天皇の正妻、一条美子(昭憲皇太后)の義理の妹になります。
慶喜と婚約していましたが、天然痘にかかり、顔にあばたが残ったため、婚約を取り消してしまいました。義父は、彼女の代わりに今出川家の娘を養女にして、慶喜に嫁がせることにします。その後輝子は、越前国の本願寺派の寺院・毫摂寺の住持である善慶と結婚し、明治時代に亡くなりました。
正室:一条美賀子
彼がまだ将軍ではなく、一橋家当主だった時代に結婚した正妻です。
もともとは今出川家という公家の出身ですが、実家より格上の一条家の養女となって、慶喜と結婚しました。
結婚してからもなにかと気苦労が多かったようです。一橋家には、当時先代当主の正室がいたのですが、この女性はかなり年が若く、慶喜とも親密だったようです。そのため、美賀子はこの若い姑に嫉妬することもあったと言われています。さらに慶喜が将軍家茂の後見職についた後は、別居生活になりました。この別居生活は明治に入り、慶喜の謹慎が解かれるまで、約10年続くことになります。ただこの別居期間後は、二人の関係はそれなりに落ち着いたようです。
美賀子は慶喜の将軍就任前に、女子を生みましたが、この子は早世しました。美賀子は明治時代に入った後に、慶喜の側室との間に生まれた子供たちを養育しました。そのため、慶喜の側室たちの子供は美賀子を母親と思っており、実母のことは召使同様に扱っていたようです。
明治27年(1894年)に乳癌を手術しますが、術後の容体が悪く、そのまま亡くなりました。
側室:一色須賀
旗本・一色貞之助定住の娘として生まれました。その後一橋徳川家の奥女中・杉浦の養女となって、一橋家に女中として仕えていました。慶喜の正室・一条美賀子の女中となった後、慶喜の側室となったといわれています。ただ明治維新後、慶喜は新村信と中根幸以外の側室に暇を出しており、この時に彼女も慶喜の側室を辞しました。彼女は長生きをして、昭和4年(1929年)まで生きました。
側室:新村信
旗本・松平勘十郎(政隆)の娘として生まれ、後に小姓頭取・新村猛雄の養女となり、その後慶喜の側室となりました。
慶喜との間、明治に入ってから、五男・七男・十男・長女・三女・九女・十一女と多くの子供を設けました。(この子たち以外にも夭逝した子供を何人か生みました。)
明治38年(1905年)に亡くなります。東京都台東区にある谷中霊園に眠る彼女は、同じく側室であった中根幸の墓と並びで埋葬されています。そして彼女たちの墓の前に、慶喜の墓もあります。
明治維新後、暗殺されることを恐れた慶喜は、夜寝る時に中根幸と新村信にはさまれて、川の字になって寝ることもあったらしいです。
側室:中根幸
旗本・中根芳三郎の娘として生まれ、後に旗本・成田新十郎の養女となり、慶喜の側室となりました。
慶喜との間には四男・九男・四女・七女・八女・十女と多くの子供を設けました。(他にも夭逝した子供が何人かいます。)
彼女は大正4年に亡くなりました。
側室?:お芳
江戸の町火消・新門辰五郎の娘で、母は母は町田仁右衛門の娘・錦です。父の新門辰五郎は江戸の侠客としても有名でした。
町娘であった彼女がどうしてそうなったのか、経緯は不明ですが、彼女は慶喜の妾となったといわれています。
父・辰五郎は芳が慶喜の妾となったことで、慶喜が京都へ上洛する際、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行いました。この時にはお芳もついていったようで、幕府の軍艦で慶喜とともに江戸へ帰ったといわれています。また、新門辰五郎は、大政奉還後には慶喜とともに駿河に赴き、いろいろ手助けをしています。しかし娘のお芳は、明治維新のころに側室として暇を出されていたようです。明治以後の彼女の動きについてはよくわかっていません。
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