古代史に現れる多くの「クロヒメ(黒姫、黒媛)」達

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

いろいろな名前の人が古代史には出てきますが、なぜか同じような名前の人も多く出てきます。

その代表例?かもしれないのが「クロヒメ」。

黒姫、黒媛……いろいろ表記はありますが。

そんな「クロヒメ」たちについて調べてみました。

1.仁徳天皇の妃の「クロヒメ」

吉備海部直の娘で、仁徳天皇の妃となりました。しかし皇后の磐之媛の嫉妬のために故郷へ帰ってしまいました。しかし仁徳天皇は吉備まで追いかけていき、彼女と再会します。
しかし天皇はいつまでも吉備にいるわけにもいかず、再び二人は別れることになります。

倭方に 往くは誰が夫 隠水の 下よ延へつつ 往くは誰が夫

『古事記』

天皇を見送る際に、彼女が詠った和歌と伝わっています。
また、岡山県のこうもり塚古墳の被葬者とも言われています。

2.二人の王子の間に……「クロヒメ」

太子、自諒闇出之、未卽尊位之間、以羽田矢代宿禰之女黑媛欲爲妃。納采既訖、遣住吉仲皇子而告吉日、時仲皇子冒太子名、以姧黑媛、是夜仲皇子忘手鈴於黑媛之家而歸焉。明日之夜、太子、不知仲皇子自姦而到之、乃入室開帳居於玉床、時床頭有鈴音、太子異之問黑媛曰「何鈴也。」對曰「昨夜之非太子所齎鈴乎、何更問妾。」太子、自知仲皇子冒名以姦黑媛、則默之避也。

『日本書紀』

仁徳天皇の死後に、その後継者となった履中天皇と結婚する予定だった女性ですが、その弟の住吉仲皇子に騙されて彼と関係を持ってしまいます。

3.履中天皇の妃の「クロヒメ」

上記2のクロヒメと同一人物ではないか?とも言われています。

秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豊皇女。

『日本書紀』

彼女の産んだ市辺押磐皇子(磐坂市邊押羽皇子)は後に雄略天皇によって殺害されてしまいますが、雄略天皇系が途絶えた後に、彼の子供二人が天皇となりました。
娘の飯豊青皇女(青海王女または飯豊王女)もまた、一時的に天皇の代理として政治を執り行ったことがあります。

「鳥往來羽田之汝妹者、羽狹丹葬立往。」(汝妹、此云儺邇毛。)亦曰「狹名來田蔣津之命、羽狹丹葬立往也。」俄而使者忽來曰「皇妃薨。」

『日本書紀』

履中天皇が神を粗略に扱ったため、その怒りを買ったことによって亡くなってしまった……とも言われています。

もしも2のクロヒメと同一人物なら、夫と夫弟の争いに巻き込まれるわ、夫のせいで早死にするわ、子供は殺されるわ、なかなか大変な運命の方ですね。

4.時代はだいぶ下がって……継体天皇の妃の「クロヒメ」

又娶坂田大俣王之女 黑比賣 生御子 神前郎女 次田郎女 次白坂活日子郎女 次野郎女 亦名長目比賣 四柱

『日本書紀』

継体天皇との間に4人の娘を産みました。父の坂田大俣王は、その名前から近江国坂田郡と関連があるとも言われています。
継体天皇の別の妃と、継体天皇の孫の敏達天皇の皇后の父は同じく近江の「息長真手王」であるので、ここから継体天皇と近江とのかかわりを指摘されることもあります。

一人目は吉備氏、二人目と三人目は葛城氏、四人目は近江系の皇族出身……
出自はバラバラなのに、名前は一緒。
案外古代においてすごく流行っていた女性の名前だったのでしょうか。クロヒメ。

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