清原マリア(清原いと) ガラシャに洗礼を授けたキリシタンの侍女

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

明智光秀の娘、たまに洗礼を授け、ガラシャの名前を与えたのは、ガラシャの侍女であった清原いと(マリア)でした。
公家・清原家の娘として生まれた彼女は、なぜキリシタンへの道を歩んだのでしょうか。

※ちなみにガラシャの侍女としては、「小侍従」なども有名であり、清原いと=小侍従とされることもありますが、別人です。

細川家につかえる前の清原いと

清原いとは公家の清原枝賢の娘として生まれました。つまり侍女と言っても公家のお嬢様でもあるのですね。
いとの大叔母は細川藤孝(幽斎)の生母であるので、清原家と細川家にはもともとつながりがありました。
父の枝賢は儒者でしたが、天正九年(1581)に出家、「道白」と名乗っています。
しかし、どうもそれ以前にキリシタンであった期間があったようです。(神父とかかわりを持った記録が残されています。)
ですのでいとにとって、キリスト教徒は身近なものだったのでは、と思われます。

さて、そんな枝賢の娘として生まれたいとは、当初、「伊予局」の名前で正親町天皇の後宮に出仕していました。
彼女の役職は、中臈・下臈に相当する命婦という女官の筆頭と言ったところです。
元亀二年(1571)~天正元年(1573)ごろまで、彼女は後宮勤めをしていました。後宮を辞した後は、大叔母の縁をたどってでしょうか、細川家に勤めるようになっていたようです。
その後、天正六年(1578)に、明智光秀の娘たまと、細川家の嫡男忠興が結婚した後に、たま(ガラシャ)の侍女となりました。

ちなみにいとの年齢はわかりませんが、父の枝賢は1520年の生まれ、兄弟の国賢は1544年の生まれです。
そして当時の後宮では、大体10歳~15歳前後で出仕し始める、という点から考えると、いとは1550~1560年の間に生まれたのでは、と思われます。
細川ガラシャは永禄六年(1563)生まれですから、いとはガラシャより少し年上の侍女だったのではないでしょうか。

細川ガラシャの侍女としてのいと

いとはガラシャの侍女の中ではかなり良い家柄(なんてったって公家の出)ですので、おそらくガラシャの侍女のまとめ役をしていたのではないでしょうか。
夫の忠興との間に長女・長男を儲け、幸せいっぱいだったガラシャの良き侍女であったのでしょう。

しかし、天正十年(1582)、本能寺の変が起こります。忠興はガラシャを、丹波国味土野に幽閉します。
夫、子供たちと離されたガラシャを支え続けたのはいとたち侍女でした。もしかしたらその中で、いとはキリスト教の話もしたのかもしれません。

天正十二年(1584)、ガラシャは幽閉を解かれ、細川家に戻ります。しかしガラシャの幽閉期間中に、忠興は藤(松の丸、元明智秀満の侍女で明智家滅亡後細川家に身を寄せていた。)を側室にして、こほ(古保)という女児を儲けていました。
ガラシャの衝撃はいかばかりかと思います。しかし当時、男性が側室を持つのは当たり前のこと、何も言えず、その後、忠興との間に2人の男の子と1人の男の子を儲けます。そして天正十四年に生まれた三男の忠利は体が弱く、ガラシャはとても心配していました。

ガラシャの子供についてはこちら


またこのころ、夫の同輩であったキリシタン・高山右近の話を、耳にすることもあったようです。

ガラシャがキリスト教に心を傾けるようになるにはそう時間はかかりませんでした。

しかし当時、高貴な女性が気ままに町に出歩けるような時代ではありませんでした。
ガラシャは夫の留守を見計らってお忍びで教会に出かけますが、教会側が誰かはわからないが身分の高い女性にいきなり洗礼を授けるのを渋ったため、洗礼を受けることはできませんでした。

そこで一肌脱いだのがいとです。

いとは自ら洗礼を受け、キリシタンとなり、「マリア」の洗礼名を得ます。そして、ガラシャに洗礼を授けました。

このことを知った忠興は激怒しますが、毅然としたガラシャのありようにしぶしぶ黙認することを選びました。
そして清原マリアと細川ガラシャ、同じ信仰を持つ二人の主従は、きっと固く結びついたことでしょう。

そしてその13年後、慶長五年(1600)、関ケ原の戦いの直前に、ガラシャは燃え盛る炎の中その命を終えることとなりました。
いとがそのときどうしていたか、何を思ったのかは歴史書に残されていません。

細川ガラシャ没後の清原マリア(いと)

出家して寿光院と名乗ったとも、キリシタンでありながら後に棄教、キリシタン迫害に協力した不干斎ハビアンと恋愛関係になり、そのまま駆け落ちしたともいわれています。
どちらの説をとってもキリスト教を棄教しているのでしょうか?(禁教令は1612年に出されていますね。)
その晩年はもしかしたら、細川ガラシャを死から救えなかったキリスト教からは一歩引いた立場を取っていたのかもしれません。

御内儀竝子息弐人、供の女三人自害 

『慶長見聞集』

当時の噂話では、ガラシャとともに自殺した侍女がいたともささやかれています。
いとももしかしたら、ガラシャと運命を共にしたのかもしれません。


ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち―天皇制度は存亡の危機だったのか? (歴史新書y)

参考文献

『戦国時代の天皇と公家衆たち 天皇制度は存亡の危機だったのか』 洋泉社2015 神田裕理

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