諸説ある明智光秀の妻ですが、確実に妻だった、と言えるのが、この女性「妻木熙子」です。
彼女はどのような人物だったのでしょうか。虚実入り混じる記録をさらっていこうと思います。
妻木熙子の家族
妻木氏……土岐氏庶流明智氏の派生家のひとつ
つまり明智光秀と妻木熙子は広い意味では親戚といえます。
父:妻木範煕もしくは妻木広忠(範煕の弟)?
妻木広忠は光秀家臣として働き、坂本城落城後、城下町の西教寺に一族の墓を作り、自害したといわれています。
兄弟?もしくは従兄弟:妻木範賢……妻木範煕の息子。
従兄弟?:妻木貞徳……信長の馬廻り。本能寺の変に関与しなかったが、こののち隠居。息子は江戸幕府旗本になった。
妹?:民間伝承で、疱瘡にかかった熙子に代わって光秀に嫁ぎかけたそうです。
夫:明智光秀
子供:三女・細川ガラシャ含め三男四女と言われています。
妻木熙子と光秀
おそらく光秀がまだ美濃の明智城にいた頃に結婚したのではと思います。(光秀が土岐氏庶流明智氏出身だとしたら)
美濃の明智城でおそらく結婚生活を送っていただろう二人ですがしかし、弘治二(1556)年、明智城は落城します。
このあと光秀は(おそらく)仕官先を探し、京、越前に向かいます。
それに付き添い、彼女も越前へ、京へと流浪の日々を送ったのではないでしょうか。
光秀は越前の朝倉家に仕官したのち、今度は亡命していた前将軍の弟・義昭に足軽衆として使えるようになります。
このころは落ち着いたとはいえ、城に住んでいた時に比べればまだまだ貧しい生活だったでしょう。
しかし永禄十一年、光秀と信長の出会い以後、光秀は信長に重用されるようになります。
そして2年後の元亀元年(1570)に、近江宇佐山城に光秀は入城するのです。
明智城落城後14年、光秀は城を取り戻したのです。
そしてその翌年、光秀は坂本城の築城をはじめます。
明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。
イエズス会日本年報(1582年追加)
壮麗な城、そして夫がようやく本分を発揮できる場所を得たことに、熙子も満足したことでしょう。
そんな熙子ですが、天正四年十月ごろ頃病気になったようです。
惟日女房衆所労也
兼見卿記
とはいえどその後に
惟日女房衆所労験気也
兼見卿記
という記事もあるので、どうも元気になったのでは……とも思われるのですが。
妻木熙子の最期
彼女がいつ亡くなったのかも不明です。
有力説では天正四年頃では、と言われています。
『細川家記』によると天正四年六月七日、『西教寺塔頭実成坊過去帳』によれば天正四年十一月七日とあります。
ただし、
安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。
イエズス会日本年報(1582年追加)
ここに出てくる「明智の妻子」の中に、熙子が含まれていたなら、熙子は天正十年、坂本城の炎の中に消えたのかもしれません。自身の子供たちとともに。
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