二人の帝王を股間に弄す 待賢門院 藤原璋子 その生涯について

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

タイトルは『飛燕外伝』趙合徳の言葉より 。彼女の生涯を表すのに、これほどふさわしい言葉はないように思います。彼女の美しさゆえに帝王(達)はゆらめき、そしてそれがためにいろいろな疑惑、事件が起こりました。平安末期、院政期の怪しい雰囲気の中でこそ咲き誇った花、そんな女性です。

待賢門院 藤璋子 鳥羽后 崇徳後白河母 大納言公実卿女 母備中守従二位藤光子 永久五十二一女従三位十八 同十七為女御 同六正二十六為中宮十九 天治元十一二十四丁酉 院号二十五 康治元二二十六為尼 真如法 四十三 久安元八二十二御事 四十五或四十六

『女院小伝』より

待賢門院の子供時代~白河天皇との強いきずな~

待賢門院 藤原璋子は今までの女院に比べると、摂関家とのかかわりがあまりありません。

彼女は白河天皇の生母の家系である閑院流藤原氏の権大納言・藤原公実、母は受領階級の出でしたが、堀河・鳥羽天皇の乳母であった藤原光子です
そのようなこともあってかなり白河天皇とは近い関係だったようです。
(ちなみに璋子の姉の一人も鳥羽天皇の乳母になっています。乳母といっても世話係とか教育係みたいなものです。)
その強い関係ゆえに彼女は后になれたのでしょう。

御母女院は中宮璋子と申しき。公實大納言の第三の女なり。鳥羽院の位におはしましゝとき、法皇の御むすめとて、まゐり給へりき。

『今鏡』より

璋子は「白河天皇の娘」として、白河天皇の実孫である鳥羽天皇と結婚したのですが……

もともと璋子は、白河天皇とその寵姫である祇園女御に養育されていました。あまりに 白河天皇は璋子を可愛がっていたため、 璋子 と白河天皇は男女の関係なのでは?などと噂もされました。

けれども、白河天皇は、摂関家の嫡男・藤原忠通と結婚させるつもりだったのです。


ところが、璋子にはこんな噂がありました。

璋子は箏の師匠である藤原季通と恋愛関係にある、と。

その噂を聞いた忠通の父は、この縁談を断ってしまいます。
(恋人と噂された藤原季通も、このことが影響してか、兄弟たちに比べてあまりに昇進が遅かったといわれています。)

白河天皇は激怒しました。しかし摂関家より良い婿はどこに?―答えは一つです。

そこで、自分の孫と結婚させることにしたのです。

(「法皇の御むすめ」としての入内は同時に白河天皇の地位をさらに高めることにもつながりますしね。)

待賢門院と鳥羽天皇

そうして嫁いだ璋子は鳥羽天皇の子を七人も生みます。四人の皇子と三人の姫君です。
彼女の産んだ第一皇子(「実は白河天皇の子」などいろいろな風説がありますが。)は幼くして天皇になりました、のちに崇徳天皇と呼ばれることになる天皇です。 そして彼女も女院になりました。
白河天皇という強力な後ろ盾の元、彼女は鳥羽天皇の寵愛をほしいままにしたようです。

しかし、彼女の強力な後ろ盾であった白河天皇の亡くなった後、すべてが急変します。

今まで自由にふるまえなかった反動でしょうか、鳥羽天皇は次々と女性に手を付け始めます。
さらに摂関家から別に后を迎え、さらにもう一人、寵愛する女性を后にしたのです。そしてその女性が子供を産むと、璋子の産んだ崇徳天皇をだまして退位させ、天皇にします。さらに 璋子の側近が、鳥羽天皇の寵姫を呪詛したという噂までたちます。

璋子は衝撃を受けました、が、戦う気力はなかったのでしょう。
尼となり隠棲した彼女は、後にわが子崇徳天皇に襲い掛かる、より過酷な運命を知ることなく、亡くなりました。

璋子を無下に扱っていたような鳥羽天皇でしたが、しかし彼女の死を知ると大声で泣き叫んだといいます。

待賢門院と恋の噂

璋子は祖父と孫二人の天皇、筝の師匠、在俗時の西行とも噂になるなど、どうも恋の噂の多い女性だったようですが、そのような噂が立つほど蠱惑的な女性だったのでしょう。そのことについて 璋子本人がどう思っていたのかは、もう全く分かりませんが……

彼女の次の女院は、鳥羽天皇の摂関家出身の后です。
こちらの女性は璋子とは違いあまり恋のうわさがない……どころか男嫌いとの風聞もある、ある意味対極に位置するような女性です。
彼女についてはまた別の機会に。

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