一条天皇の妻(皇后・中宮・女御)たち

古代史(日本史)

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紫式部の主人となった中宮彰子の夫・一条天皇。

当時の天皇は一夫多妻制で、妻が一人……という天皇は稀有でしたが、一条天皇もまた、紫式部の主人・彰子以外にも多くの女性を妻に迎えています。

この記事では、一条天皇の妻(皇后・中宮・女御)たちについてまとめてみました。

一条天皇の妻(女御→中宮→皇后):藤原定子(藤原道隆の娘)

一条天皇が最初に迎えた妻が、一条天皇より3歳年上の藤原定子でした。

ともに藤原兼家の孫であり、従姉弟同士での結婚ですね。

彼女は兼家の長男・道隆と、宮中に仕えるキャリアウーマンでもあった道隆の正妻・高階貴子との間に生まれた長女でした。

父・道隆はおそらくこの娘が生まれると同時に、天皇に嫁がせる未来を想像していたことでしょう。

定子はおそらく一条天皇の添臥(そいぶし:貴人の元服の際に女性を添い寝させる風習で、その添い寝役の女性のこと)として宮中に入り、そのまま一条天皇の妻となったようです。

源氏物語でいうところの、光源氏と葵上の結婚がやはりこのような形でしたから、当時としては珍しくないかたちでの結婚であったのでしょう。

藤原定子は父・道隆譲りのユーモラスと、母・貴子ゆずりの才知に恵まれた女性でした。

少し年上の、ウィットにとんだこの女性に一条天皇はすっかり夢中!

結婚してすぐは一条天皇の幼さもあってかなかなか子供が生まれず、周囲はやきもきしたようですが、二人はオシドリ夫婦となります。

しかし結婚して数年、長女・脩子内親王といった子供にも恵まれますが、定子の父・道隆の死、そして道隆の権力が定子の叔父・道長にと移ったあたりから、二人の周りにはあらしが吹き始めます。

定子の兄弟・伊周と隆家は失脚させられ、彼らをかくまっていた定子のもとに、検非違使が押し寄せ―定子の目の前で、兄弟を拘束、二人は流罪になってしまいます。

定子の精神は耐え切れず、彼女はその場で自らの髪を切って尼となってしまいます。

擦り切れそうな精神の定子を、それでもなお愛していた一条天皇は彼女を強引に宮中に戻し、宮中の中でもさびれたところに住まわせて夜ごと通い詰めました。

一条天皇としては、もはや定子を守ってあげられるのは自分だけ……といった思いがあったのかもしれません。

しかし尼僧となった女性を再び宮中に呼び戻すなどの特別扱いが、かえって定子の立場を悪くしたところもあったようです。

そんな中定子は待望の第一皇子・敦康親王を産みますが、道長やその周囲の人々からは当然歓迎を受けませんでした。

道長は娘・彰子の立場を確たるものにせんと、定子を無理やり「皇后」とし、自らの娘を同じく正室格である「中宮」に押し上げます。

定子がどのような思いでこのニュースを聞いたのかはわかりません。

あまりにもいろいろあったからでしょうか、定子の体はすっかり弱っていたようです。彼女は一条天皇の三人目の子となる第二皇女を産みますが、産後の状態が思わしくなく、若くして亡くなってしまいます。

皇后宮已頓逝甚悲

引用:『権記』

一条天皇の悲しみは深いものであったようで、側近の藤原行成らにその悲しみを吐露することもあったようです。

定子の子・敦康親王は道長の庇護を受けつつ成長しますが、中宮彰子所生の異母弟たちの存在により天皇になることなく、母同様に若くして亡くなっています。

そして敦康親王の残した孫娘・嫄子も、祖母同様にお産で若くして亡くなり、嫄子の生んだ二人の娘たちはいずれも独身を貫いたため長生きしましたが、子孫は残しませんでした。

一条天皇の妻(愛人?):御匣殿(皇后定子の同母妹、藤原道隆の娘)

さて、愛する妻・定子を失った一条天皇は悲しみの中毎日を過ごしていたようですが、ある日ふと、亡き定子の面影を持つ女性を見かけ、彼女を愛するようになりました。

彼女の本名は伝わっていませんが、彼女は「御匣殿」と呼ばれています。

「御匣殿」とは「御匣殿の別当」を意味しており、貴人のクローゼット管理担当者、みたいな意味合いですね。

当時は女房達の中でも特に家柄の良い「上臈女房」が名乗る称号でもありました。

彼女は実の姉・定子の上臈女房であり、定子亡き後は出家したものの、甥姪(敦康親王や脩子内親王・第二皇女たちですね)の面倒を見ていたようです。

すでに父・道隆を失っていた彼女は正式な女御などに上がることはありませんでしたが、一条天皇の寵愛を受け、とうとう懐妊まで果たします。

しかし、お産のために宮中を退いた後、彼女は子供を産むことなく、そのまま亡くなってしまいました。

定子の面影を持つ女性を失った一条天皇は、やはり深く悲しんだといいます。

一条天皇の妻(女御→中宮):藤原彰子

紫式部の主人であり、父・道長の栄華を背景に一条天皇の後宮においてときめいたのが中宮・藤原彰子でした。

数えで12歳(実年齢11歳)という若さで、従兄にあたる一条天皇の後宮に入り、その翌年には定子を無理やり押し上げて中宮の位につきます。

さらにそのあとすぐにライバル・定子も亡くなってしまったため、後宮において彼女に勝つことができる存在は誰一人いなくなってしまいました。

彰子は定子亡き後、母・倫子の手助けを受けつつ、亡き定子の遺児・敦康親王の養育を行っていました。

ライバル出会った女性の子供……となると心中穏やかでないような気もしますが、肝が据わっていたのか、まだ10代半ばの彰子はこの子をかわいがったようです。

彰子の献身が、定子を失った一条天皇の空虚な心を満たしたのでしょうか、一条天皇は次第に彰子を重んじるようになります。

彰子はなかなか妊娠しませんでしたが、20歳になるころに立て続けに二人の男児を生みます。

この二人の男児は皮肉にも彰子の養育した敦康親王の皇位を阻むことになりますが、この二人の男児―後一条天皇、後朱雀天皇によって、父・道長、そして弟・頼通の摂関家の栄華が決定的になります。

しかし実子に恵まれるもつかの間、一条天皇は30代の若さで亡くなり、24歳の彰子は未亡人になってしまいます。

彼女はまだ幼い息子たちの後見として奮闘しますが―そこからの彼女の人生は多くの人々に先立たれる人生でした。

彰子はひ孫・白河天皇の治世のさなか、87歳という高齢で亡くなります。

この時すでに同母妹3人や弟・頼通、そして愛した養子、二人の我が子、複数の孫たちにも先立たれているような状態でした。

ようやくお迎えが来たときは、むしろほっとしていたかもしれませんね。

摂関政治の覇者の娘 上東門院 藤原彰子 その生涯について
号東北院 上東門院 藤彰子 一条后 後一条後朱雀母 法成寺関白第一女 母左大臣雅信公第一女従一位倫子 長保元十一七 為女御 年十二 二年二十五為中宮十三 寛弘九二十四為皇太后二十五 寛仁二十十六為太皇太后三十一 万寿三正十九丁酉為尼 法名清...

一条天皇の妻(女御):藤原義子(弘徽殿女御、太政大臣藤原公季の娘)

一条天皇は元服後、定子を妻に迎えた後はしばらくほかに妻を迎えていませんでした。

我が娘のライバルを増やしたくない舅・道隆の意向を重んじていたのかもしれません。

しかし定子の父・道隆の死後、権力を持った道長はあえて一条天皇が新たに妻を迎えることを咎めたりはしませんでした。

我が娘・彰子はまだ幼く入内できる年齢ではなく、入内まで時間がかかる状態ならば、一条天皇に複数の妻を持たせて定子の権力をそぎ落とす……といったことを画策していたのでしょうか。

そんな中に入内したのが、道長の叔父・太政大臣藤原公季とその正妻・有明親王の娘(村上天皇の孫娘)との間に生まれた娘で、道長から見れば従妹にあたる義子でした。

一条天皇よりもかなり年上であった義子はしかし、あまり寵愛を得ることはなかったようです。

当時の一条天皇は定子にぞっこんでしたし、定子死後は道長の手前もあり、彰子を非常に大事にしていたようですからね。

ひっそりと後宮で暮らしていた義子は、しかしその穏やかな生活が幸いしたのか、一条天皇死後も長生きし、80歳という高齢で亡くなっています。

一条天皇の妻(女御):藤原元子(承香殿女御、右大臣藤原顕光の娘)

藤原義子の入内と同時期に、右大臣藤原顕光の長女である元子も入内しました。

彼女の父は摂関家の血を組む右大臣・藤原顕光、母は村上天皇皇女・盛子内親王であり、一条天皇の妻たちの中でも母親の血筋ではNo.1の女性でした。

彼女の父・顕光は儀式の手順などもしっかりと覚えていないような愚鈍な人物、だといわれていましたが、血筋の良さと、かえって聡明でないことが幸いして、道長政権のNO.2にまでのし上がっていました。(変にキレ者の身分を上げると足もとをすくいかねませんが、愚鈍な人物ならその心配は少ない……という理論ですね。)

義子よりは年齢が近いこともあったのか、一条天皇は彼女のことをたびたび気遣っていたようです。

さらに!入内してしばらくたつと、彼女は懐妊したと診断されたのです。

当時一条天皇には娘・脩子内親王のみしかおらず、ここで彼女が男児を産めば一気に後宮での権力争いの勝者にのし上がり、そして父・顕光が道長にとって代わる、なんて未来もあり得たかもしれません。

しかし、産み月を過ぎても彼女は子供を産むことはなく……祈祷などが進む中、苦しんだ元子のおなかから流れ落ちたのは―水のみでした。

父親の期待を一身に感じるあまり、彼女は想像妊娠をしていたのでしょう……が、当時の人からすれば「水を産んだ女」と嘲笑の対象になったようです。

ふさぎこんだ彼女は、その後は一条天皇のそばに上がることはほとんどなく、実家で過ごしていることが多かったようです。

入内から15年後、一条天皇は30代の若さで亡くなります。元子もまた、30代半ばでした。

その後、ふさぎ込んで実家に引きこもっていた彼女に何があったのか―彼女は一条天皇の従兄にあたる源頼定という公卿と懇ろになってしまいます。

この源頼定、天皇の孫でありながら皇位はもちろん、昇進とも縁遠い状況にあった(安和の変で失脚した源高明と縁が深かったため)せいか女性関係が激しく、三条天皇の妻であった道長の妹・藤原綏子と密通→妊娠騒動を引き起こすなどお騒がせな人物でした。

とはいえどそれまで死んだような気持で日々を送っていたであろう元子からすればまさしく彼は白馬の王子様だったのでしょう。

かつては天皇の妻にもなった元子が女関係の激しい一公卿の恋人に収まったことに、父・顕光は激怒し、元子は実家を追い出されてしまいます。

しかし元子は何のその、知り合いのつてをたどって車宿‐いわばガレージのようなところに住まいを移し、頼定との間に二人の娘を産みます。

情熱的な元子にほだされたのか、プレイボーイだったはずの頼定は、自身の死まで元子と生活を共にしたようです。

頼定の死後はちゃっかりと実家に戻り、二人の娘を育て上げましたが、この娘たちのうちの一人はかつてのライバル・定子の孫娘・嫄子の女房となっています。

娘が女房となることを聞いた時、元子は一条天皇の後宮を懐かしく思ったりもしたのでしょうか。

一条天皇の妻(御匣殿別当→女御):藤原尊子(暗戸屋女御、前御匣殿女御とも。関白藤原道兼の娘)

義子、元子に少し遅れて一条天皇の妻となったのが、藤原道兼の娘であった藤原尊子でした。

尊子は、道兼と道兼の叔母で一条天皇の乳母であった藤原繁子の間に生まれました。

藤原道兼の妻(正室、側室)たち
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しかし両親はあまり仲が良くなかったのか、母・繁子は尊子が幼いうちに平惟仲という貴族と再婚しています。

そのこともあってか、尊子は実父・道兼からはあまり顧みられることがなく、もっぱら母や母の再婚相手・惟仲の庇護を受けていたようです。

入内が決まった経緯はよくわかりませんが、母・繁子は道長とも関係が深かったため、あまり道長と関係性のない女御義子・女御元子に対する牽制的な意味合いで入内が決まったのかもしれません。

実父の死も影響してか、藤原定子、藤原彰子らほど時めくことはなく、静かな後宮生活を送ったようです。

一条天皇が亡くなったときに20代後半だった彼女は、一条天皇の死後、参議・藤原通任(三条天皇の皇后・娍子の弟)と再婚しますが、数年後に38歳の若さで亡くなっています。

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