家康と茶々(淀殿・淀の方)との関係

中世史(日本史)

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大河ドラマ『どうする家康』でまだ赤子のお市の長女を家康が抱えてあやすシーンが出てきましたね。

歴史を知っている人からすればヒヤッとする光景ですよね、この数十年後に、敵対することになる二人の、あまりにもおだやかで美しい邂逅でした。

さて、最終的には対立することとなる二人ですが、実際のところ史実ではいつ頃初対面を果たしたのでしょうか。

家康と茶々(淀の方)の初対面がいつかを、史実を追いながら見ていこうと思います。

また併せて、この二人にまつわる驚きの噂も紹介します。

家康と茶々(淀の方)の初対面はいつ頃?

家康と茶々が初めて顔を合わせたのはいつごろか?というのは分かっていないようです。

そもそも織田家ゆかりの姫君、のちに秀吉の側室となった茶々が、家康と二人きりになる機会は、彼女の一生においてはまずなかったでしょう。

対面した、というか同じ空間にいた、のはいつ頃なのか?を調べてみたいと思います。

茶々は永禄十二年(1569)頃の生まれといいますが、その翌年にはすでに浅井家の裏切りからの金ヶ崎の戦いが勃発し、織田方と浅井方は緊張状態に陥っています。(金ヶ崎の戦いでは家康は「羽柴秀吉」こと後の豊臣秀吉と、退却する織田軍のしんがりを務めて大変な思いをしています。)

その後小谷城の戦いまでの間、しばらくは浅井家と織田家は表面上は和平状態にありましたが、その実織田方による浅井家の武将の調略が行われるなどといった有様でした。

当然ながら織田家の重要な同盟者である家康と浅井家のかかわりはほぼなかったと思われます。もしもあったとしても、子供に過ぎない茶々と家康が対面するようなことはまずなかったでしょう。

浅井家滅亡後、茶々がどこにいたのかは諸説あります。

一説には信長の叔父の居城であった尾張の守山城、その叔父の戦死後には、母の柴田勝家との再婚までは信長の住まいの一つであった岐阜城に居住していたといいます。

元亀年間以降の家康は、基本的には浜松を拠点に、駿河や美濃にちょっかいを出す武田家とやり合うなどしており、家康本人の上洛などはなかなかできなかったようです。

ただ本能寺の変の前、武田家の滅亡した後の天正十年(1582)の五月ごろ、家康は信長の招きに応じて上洛を果たし安土城、のちに堺などへ赴いています。

家康の上洛ルートの途中に岐阜城はありますから、あるいは岐阜城に立ち寄ることもあったかもしれません。もしかしたらこの時に初対面を果たしていたかもしれませんね。

本能寺の変後、家康は伊賀越えで這う這うの体で帰国、その後光秀を討つべく上洛しようとしますが、秀吉によって光秀討伐がなされたことを知り、三河に留まることにします。

信長の死により甲斐や信濃で起こった一揆に対応すべく、家康は戦い続け、さらに同じように漁夫の利を狙って信濃に攻めてきた北条氏との和睦を果たします。

この直後、家康は秀吉と敵対するようになった信長の次男・信雄と組んで秀吉と敵対するようになり、天正十二年(1584)に小牧・長久手の戦いが勃発、家康は辛くも豊臣方の森・池田軍を撃退します。

とはいえどすでに天下は秀吉のものとなっており、紆余曲折の末家康は秀吉の妹・旭姫と再婚し、天正十四年(1586)には上洛し秀吉に臣従します。

この間、茶々は母ともども岐阜城を離れ越前北ノ庄城へ、北ノ庄の落城後は秀吉の庇護のもと安土城に身を寄せ、その後聚楽第に住まう従姉妹の京極竜子(秀吉の寵愛した側室)のもとに身を寄せ、そして天正十六年(1588)ごろには秀吉の側室となっていたようです。

安土城が廃城となったは天正十三年(1585)、聚楽第が完成したのは天正十七年(1587)のことですから、この間は秀吉の二条第(妙顕寺城、いわゆる二条城)に茶々は住んでいたかもしれません。

もしかしたら、天正十四年(1586)の家康の上洛時に初対面を果たしていたかもしれませんね。

家康は天正十四年の上洛後は、江戸への国替えなどもあり基本的には東海~関東で過ごすことが長かったようですね。

ただ文禄四年(1595)のいわゆる「秀次事件」以降は京にて過ごすことが多かったといいます。

おそらくではありますが、このころには世継ぎの母、そして一説には北政所と並ぶ秀吉の正室格であった茶々と何らかのやり取りをすることはあったのではないでしょうか。

ちなみに茶々は永禄十二年(1569)生まれだと言われていますが、一説には信長の従姉妹で側室であったお市の方が信長との間に儲けた娘で、後に信長の養妹として浅井家に嫁ぐことになったお市の方は彼女を連れて長政と結婚したのだ!という異説があります。

もしもこれが事実であったら、尾張、あるいは美濃で信長の娘として育っていた茶々の姿を家康が見かけるなんてこともあったかもしれませんね。

家康と茶々(淀の方)には結婚話も持ち上がっていた?

大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重無殊儀候、大名之由候

引用:『多聞院日記』

奈良興福寺の塔頭・多聞院の僧侶による『多聞院日記』内に面白い話が描かれています。(『多聞院日記』の筆者としては大和の武家・十市氏縁者の多聞院英俊が知られていますが、この時すでに多聞院英俊は亡くなっているので英俊の弟子によってこの記事は書かれたと思われます。)

慶長四年(1599)、大阪にて秀頼の母、つまり茶々と家康の婚姻があるはずだったが、茶々の乳母子である大野治長が茶々を連れて高野山に行ってしまったため、ないことになってしまった……と。ついでに、これは秀吉の遺言だったと。

荒唐無稽な話のようですが、とりあえず当時はそのような風聞があったのでしょう。

すでに秀吉妹・旭姫と死別していて正室のいない家康ですから、新たな正室として秀吉ゆかりの茶々を迎え入れても、確かに全く問題はありません。

とはいえどこれはあり得ない話であったと言えるでしょう。

まず茶々と大野治長が恋仲だった……とはよく語られる話ですが、浅井家・織田家の血をひく、いわば高貴な姫君であった茶々が乳母子に過ぎない大野治長と恋愛をすると言うのは、当時の価値観からするとあまりにもありえない話のような気がします。

茶々と大野治長は親しかったかもしれませんが、それでも二人の間には身分という壁がしっかりとあったことでしょう。

この二人の絆があるとしたら、それは恋愛ではなく、主従というのが正確ではないでしょうか。

また、家康と茶々が結婚せずとも、二人を結ぶ縁はとうに存在しています。

すでにこの時、茶々の妹・お江は家康の後継ぎである秀忠の妻となっています。わざわざ改めて茶々と家康が結婚する必要性は薄いように思われますね。

また、秀吉の生前に、既に秀頼と家康の孫娘である千姫の婚約話は持ち上がっていたといいますから、さらにこの関係性(茶々―家康のつながり)が強くなることは明白だったわけです。

このうえさらに茶々と家康の結婚……というのは、おそらく根も葉もないような話であったのではないでしょうか。

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