歩き巫女とは?歩き巫女の歴史

中世史(日本史)

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2023年の大河ドラマ『どうする家康』には歩き巫女・千代が登場することが発表されましたね。

また、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、大竹しのぶさん演じる謎の老婆が歩き巫女のような形で登場しました。

では、歩き巫女とは一体何なのでしょうか?今回は、歩き巫女の起源や戦国時代の様子など、その歴史について解説していきます。

歩き巫女とは?歩き巫女の意味

歩き巫女は、特定の神社に所属することなく、全国各地を巡り、祈祷や口寄せなどによるお告げ、勧進などを行うことで生計を立てていた女性たちの事です。

ただ純粋に宗教活動のみに従事していたかというとそうでもなく、旅芸人や遊女を兼ねる者も少なからずいたそうです。

古来より旅をしながら技芸を披露する遊女はいましたから、彼女たちと同一視されるようになったのかもしれませんね。

また、日本ではありませんが、古代オリエントなどでは神殿に仕える巫女がいわば祭祀の一環として売春することもあったようですから、そういった性と聖の結びつきも影響していたのかもしれません。

日本でも『立川流』など、性と密接にかかわる宗教があったと言われています。

一枚岩ではない歩き巫女

彼等の職掌にも時代の變化はあつて近世は專ら個々の民家の爲に、其家に屬する死靈のみの口を寄せて居たやうだが、旅をする巫女たちには、是は寧ろ不向きな仕事であつた。土地に其役目を勤める者が無くなり、一方には彼等在來の本業が輕んぜられた結果、自然にこちらへ轉向して來ただけで、以前は多分諏訪の御社の靈驗を説き、其神宣を傳達することが目的であつたらうかと思ふ。

引用:柳田国男『信濃柿のことなど』より

歩き巫女のパブリックイメージにもなっているほど代表的なのは、諏訪大社信仰に根付いた「信濃巫」でしょう。

ただ歩き巫女には他にも様々な人々がいました。

鳴弦を通じて託宣を与えた梓巫女や、熊野信仰を全国に広めた熊野比丘尼もよく知られています。

また、若宮神社に仕える巫女である「ワカ」、「アガタ シラヤマミコ モリコ」と呼ばれた山伏の妻なども各地を渡り歩いては、竈拂ひ(かまどはらひ)や口寄せを行ったといいます。

歩き巫女の読み方は「あるきみこ」、別名は白湯文字など

歩き巫女の読み方はシンプルに「あるきみこ」です。他にも歩き巫女を指す言葉にはいろいろあります。

歩き巫女は神事だけでなく、遊芸や売春に従事することもありました。

そのため、遊女の別称である白湯文字、旅女郎と呼ばれることもありました。

歩き巫女の始まり

歩き巫女の始まりは定かではありません。

それこそ占い・呪術が日本では太古の昔・卑弥呼の時代からあったことを考えるならば、古代から似たような人々はいたことでしょう。

中世における歩き巫女の代表的な形態として「信濃巫」があります。

この「信濃巫」は、信濃国(現在の長野県)の諏訪神社にその起源を見ることができます。

根津神平が鷹つかひの傳説などを思ひ合せると、少なくとも小縣郡の所謂ノノウが諏訪大明神の信仰と關係が有つたことは、ほゞ之を疑ふことが出來ぬのである。

引用:柳田国男『信濃柿のこと』

柳田国男によると、もともとは諏訪神社の巫女で、「ノノウ」(のうのう、と言う呼びかけや経典から)と呼ばれていました。

彼女たちは、諏訪信仰の伝道者として各地域を歩いていたといいます。

戦国時代の歩き巫女~武田信玄と望月千代女~

信濃巫の近世の根據地は、小縣《ちひさがた》郡の禰津《ねづ》村であつて、今ではその最後の家さへ絶えてしまつたが、以前はもう少し汎い區域に亙つて、この職業の者を全國へ送り出して居たやうに思はれる。

引用:柳田国男『信濃柿のことなど』より

『どうする家康』に出てくる歩き巫女・千代の名前は、おそらく武田氏ゆかりのくノ一の長であったと伝説的に語られる「望月千代女」にちなむものでしょう。

武田信玄の義理の姪(甥の妻)である望月千代女は、武田信玄の命により諏訪大社ゆかりの歩き巫女を統率する「神子頭」の立場にあったと言われています。

彼女は夫・望月盛時の戦死後、望月氏の同族である禰津氏ゆかりの禰津の地に移住して、甲斐信濃二国の神子頭として両国の歩き巫女たちを差配したというのです。

一説には、千代女は、この歩き巫女たちを武田氏のスパイとして訓練し、各地に赴かせていたのでは?とも。

この説に史実上では根拠はありません。

しかし、ある人が歩き巫女を統率した神事舞太夫の子孫の家を調査したところ、なぜか3通の人相書きが伝わっていたことが分かっています。

また、歩き巫女と関係の深い禰津氏・望月氏は武田氏滅亡後、真田氏に仕えるようになるのですが、真田氏が支配した松代藩に伝わる忍術書には、「聖女」という名の女性忍者が登場します。

聖女は、武田由来の松代藩の忍術の流れを汲む女性忍者で、忍術を習得、伝承する役割を果たしたといいます。

当然ながら彼女たちのアイデンティティにかかわる情報は少ないですが、松代藩に伝わった武田信玄系の忍術伝書『竊奸秘伝書』の中には梅村澤野という女性が流祖として記されています。

歩き巫女の終焉

歩き巫女の姿は明治時代初期までは江戸や畿内など、各地で見られていたといいます。しかしその後は近代化の流れもあってか姿を消してしまいました。

ただ現代でも口寄せを行う恐山の「イタコ」や、沖縄の女性シャーマン「ユタ」など、歩き巫女との関連を思わせるような女性祭祀者は存在しています。

占い師や霊能者、宗教家の一部の方もまた、歩き巫女の一種と言ってもいいのかもしれません。

歩き巫女はその意味で、現代までもその系譜は続いているといってもいいでしょう。

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