紫式部と、その主人藤原彰子の父・藤原道長の関係性については様々な疑惑を読んでいますね。実は恋人同士だったなんて説もあるようです。
一方、創作物において、紫式部のライバルとして名前がよくあがる清少納言(藤原彰子のライバル・定子の女房)は、藤原道長を敵視している描写も見られます。
しかし、実際のところ、清少納言は道長をそこまで敵視していたという様子もなかったりするのです。
ここでは、清少納言と藤原道長の関係を調べてみました。
清少納言は藤原道長を素晴らしい人間だとほめたたえていた
大夫殿のゐさせ給へるを、かへすがへす聞こゆれば、「例の思ひ人」と笑はせ給ひし、
引用:『枕草子』
藤原道長は関白家の三男(異母兄弟も含めると四男)という立場であり、当初は長兄・道隆(清少納言の主人・皇后定子の父)に従う身分でした。
長兄・道隆がまだ存命であった時代には兄に額づくようにへりくだって仕えていたこともあったようです。
そのころの清少納言は、主人の叔父にあたる道長をかなりほめたたえていたようです。
実の兄に対しても身分をわきまえて接しているなんて素晴らしいわ!と。
その様子を主人の定子にからかわれて、「あなたのお気に入りのあの人ね」と笑われたこともあったとか。
ただこの文章は、実は道隆死後、定子が悲憤のうちに亡くなった後に書かれた文章でした。
先の枕草子の文章は、このように続きます。
この後(のち)の御ありさまを見たてまつらせ給はましかば、ことわりとおぼしめされなまし。
引用:『枕草子』
この後の藤原道長の栄華の様子をみたならば、定子様もきっとそれは本当におかしいことだったと、しみじみと思ったでしょうに。
清少納言にとってこの記憶は、定子、定子の父道隆の栄華の輝かしい記憶であると同時に、今の権力者に対する皮肉めいた感情ももたらしたに違いありません。
中関白家没落後の道長観は不明
左中将のいまだ伊勢の守と聞こえしとき、里におはしたりしに、端(はし)の方(かた)なりし畳をさし出でし物は、この草子も乗りて出でにけり。まどひ取り入れしかども、やがて持ておはして、いと久しくありてぞかへりにし。それより染めたるなめりとぞ。
引用:『枕草子』
清少納言の書いた枕草子のことが最初に広まったのは「左中将のいまだ伊勢の守と聞こえしとき」つまり、左中将こと源高明の息子・源経房が伊勢守だった長徳元年(995)以後のことだと思われます。
同時に「左中将」との表記もあることから、長徳四年(998)の左中将への昇進もすでになった後でもあるのでしょう。
あるいは、枕草子は何度か改訂され、章段が付け加えられていく形でひろまっていったのかもしれません。
また、「定子さまが生きていれば……」という表記が見受けられる文章もあることを考えると、文章の一部(もしくは全部)は、皇后定子が三度目の御産で落命したあとに記されたものでしょう。
枕草紙が広まり始めた長徳元年四月に道隆は亡くなり、すぐに道長の世になりました。
そのこともあって、清少納言は大っぴらに道長に対する批判の感情を述べることはできなかったでしょう。
しかし、清少納言は自分なりのやり方で少しでも道長にあらがったものだと思われます。
家主に案内を問ふ。申して云はく、「則光朝臣は家司に似るなり。之に給はるは如何」と。此の由を以て奏聞す。
引用:『御堂関白記』
大外記敦頼朝臣、云はく、「今日、政有る事、太だ強ちに似る。除目始の日、政有る例を聞かず。是れ春宮大夫斉信卿、前土左守則光、催し申す文書に依り、行なふ所なり。
引用:『小右記』
清少納言は元夫・橘則光と腐れ縁のような関係を続けていましたが、則光は道長と関係の深い藤原斉信(後に一条朝の四納言の一人として名をはせる)の家司的な立場にありました。
彼女は道長が権力を握った後、この夫と絶縁したのです。
元夫の主人にあたる藤原斉信のことはそこまで邪険にはしなかったようですが、それまではほめたたえて積極的に交流していたにもかかわらず、一線を引いて対応したようです。
げにいかならむと思ひまゐらする御けしきにはあらで、候ふ人たちなどの、「左の大殿方の人知る筋にてあり」とて、さしつどひ物など言ふも、下よりまゐる見ては、ふと言ひやみ、はなち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ
引用:『枕草子』
長徳二年(996)頃、清少納言は道長派の人間との関り(藤原道長はもちろん、藤原斉信、元夫の橘則光、藤原行成、藤原公任などでしょう)とのかかわりを同僚の女房衆に疑われ、里下がりしている時期がありました。
しかし彼女は最終的に、定子の再三の声掛けにより定子のもとに戻ります。
もしもこの時、彼女が論理的に物事を考え、さらに道長に対する好感情があったならば、この主を捨てて宮仕えを退き、何食わぬ顔で彰子の女房となることだってできたでしょう。
公卿たちとも渡り合えるほどの才知を持つ、彼女であったならば。
しかし清少納言は定子の女房として宮廷生活を全うしました―それもまた、清少納言なりの、道長に対する決別だったのかもしれません。
清少納言の娘・小馬命婦は藤原彰子の女房
宮仕えを退いた後の清少納言の詳しいことは分かりません。
ただ、『清少納言集』詞書などから、かなり年長の受領・藤原棟世と再婚し、夫の任国であった摂津に下ったといいます。
清少納言はこの夫との間に、娘・小馬命婦を儲けました。
成長した小馬命婦は才女として高名な母の影響もあってか、母同様に宮仕えの道を選びます。
彼女の主人は上東門院・藤原彰子―母の主人のライバルであった道長の長女でした。
しかしこの時すでに時代は完全に道長のものとなっていましたから、清少納言の葛藤などきっとすぐにかき消されてしまったに違いありません。
ちなみに、小馬命婦には娘が一人(清少納言の孫)いましたが、この娘は実は一時的にですが、紫式部の孫にあたる高階為成と恋仲になっていたそうです。不思議な因縁を感じますね。
さて、娘は上東門院藤原彰子に仕えましたが、清少納言は再び宮中に出仕したことはあったのでしょうか?―実は、あったかもしれないのです。
枕草子は、人ごとに持たれども、まことによき本は世にありがたき物なり。これもさまではなけれど、能因が本と聞けば、むげにはあらじと思ひて、書き写してさぶろうぞ。草子がらも手がらもわるけれど、これはいたく人などに貸さでおかれさぶらふべし。なべておほかる中に、なのめなれど、なほこの本もいと心よくもおぼえさぶらはず、さきの一条院の一品(いっぽん)の宮の本とて見しこそ、めでたかりしか、と本に見えたり。
引用:『枕草子』
枕草子に後世つけられた奥書の中で、枕草子の写本として素晴らしい出来のものとして、「一条院の一品の宮の本」の名前が挙がります。
一条院の一品宮、それは清少納言の敬愛した皇后・定子の長女、脩子内親王のことです。
清少納言は主没後、この脩子内親王に仕えたのではないか、という説があります。
もしもこの説が正しいのなら、彼女は最期まで道長の思い通りにならなかった稀有な女性だったのかもしれませんね。