徳川家康が正室・築山殿(瀬名姫)との間に儲けた長男が、松平信康(徳川信康)でした。
信康は家康の嫡男として、家康の最大の同盟相手でもあった織田信長の娘・徳姫(五徳)と結婚するなど、徳川の御曹司として順風満帆な人生を歩み始めた……にもかかわらず、最終的には切腹へと追いやられることとなります。
信康が切腹する羽目になったのは、松平一族内部での内紛、家臣同士の争い、あるいは夫婦間の問題など諸説あるようですが、イマイチ決定打に欠けるようです。
信康の死後、家康の後継者となったのは信康の異母弟・秀忠でしたが、信康の子供たちはどうなったのでしょうか。
ここでは信康の妻(正室・側室)と子供たち、そして信康の子孫の行く末について調べてみました。
松平信康の正室:徳姫(五徳、おごとくとも。織田信長の長女)
松平信康の正室は、織田信長の長女・徳姫(五徳)でした。信長の長女との結婚ということで、信長がいかに家康、そして信康を重視していたかがうかがえるような気がしますね。
信長は信康に「信康」という名前(信長の「信」と家康【元康】の「康」)を与えるだけでなく、織田家嫡男に使用されてきた「三郎」という名乗りまで許しています。
信長はこの娘婿に多大な期待をかけていたのでしょう。
結婚したのは永禄十年(1567)のことであり、二人ともまだ10歳にもならない年齢でした。幼い夫婦たちは、夫婦というよりも幼友達として仲良く遊ぶこともあったかもしれません。
徳姫は結婚からおよそ10年ほどたった天正四年(1576)に登久姫、翌天正五年(1577)に、熊姫の二人の娘を産みました。
信康の死は熊姫の誕生後3年ほど後のことですが、熊姫誕生後に二人の間に子供は生まれませんでした。
特に信康の後を継ぐべき男子が生まれないのは、徳姫はもちろん、信康、信康の母・築山殿を焦らせたことでしょう。
このことが影響して、信康は後述の側室たちを娶ったなどとも言われますが……実際どうなんでしょうね。
彼女がこのことなどを恨みに思い、信長に出した手紙が、信康の死の理由となったとも言われています。
信康の死後、徳姫は娘たちを置いて実家・織田家に帰り、その後は京で余生を過ごしました。
松平信康の側室:浅原昌時の娘
松平信康は、徳姫以外に2人の側室を持っていたと伝承に残っています。
その一人が、武田家臣・浅原昌時の娘とつたわります。(一説には徳川家家臣・浅原氏なる人の娘とも。)
後述の「日向大和守時昌の娘」と父親の名前が似ている(昌時と時昌)ことから、実は1人の女性の事績が二人に分けられたともいいますが……詳しいことは不明です。
浅原氏はもともと甲斐源氏・小笠原氏の庶流の一族で、武田信玄の駿河侵攻時に犬間城にて奮戦した今川家臣・浅原修理亮(浅原四郎右衛門安近)などが知られていますが、浅原昌時はその遠縁でしょうか。
ちなみに浅原安近は今川氏家臣→武田氏家臣となったのちに、徳川家に仕えるようになっています。
同族と考えられる浅原昌時もまた、今川家臣→武田氏の駿河侵攻時に武田氏に仕える→武田氏の勢力の弱まったのちに徳川家臣となったのかもしれませんね。
浅原昌時の娘が側室として迎え入れられた時期を考えるならば、徳姫が子供を産んだ天正五年の後のことかと思われます。
なぜ武田氏の家臣の娘が敵対する徳川氏の若君の側室に上がることがあるのか?は非常に不明ですが、後世の歴史物語などによると、徳姫をいびろうとした築山殿が織田家と敵対する武田氏と縁深い女性を側室にしたということになっていますね。
もしも築山殿の仲介で武田氏家臣の娘が側室に入るとしたら、何らかの理由で同盟関係にあった今川氏を頼っていた武田氏の家臣の娘が、築山殿と知己を得て侍女となり、その後その息子に仕えるようになった……というのが一番考えられる理由なような気もします。
また、浅原氏自体がすでに徳川家臣となっていたならば、特に問題もありませんね。
彼女は信康の子を産むことはなかったようです。信康死後の動向は不明ですね。
実家に戻って誰かと再婚したのか、尼にでもなったのか。それとも夫ともども処断されたのか。すべては歴史の闇の中です。
松平信康の側室:日向大和守時昌(昌時?)の娘
松平信康の側室には、武田信玄に仕えた日向大和守の娘がいたとも伝わります。上述の浅原昌時娘と同一人物説もありますね。
彼女の父親とされる「日向大和守時昌(昌時?)」ですが、浅原昌時同様に事績不明の人物です。
武田信玄に仕えた日向大和守の実名はおそらく「虎頭」だと考えられていますが、彼の息子に「昌成」なる人物がいたことが分かっています。
もしかしたら「日向大和守時昌(昌時?)」はこの虎頭の別の息子(昌成の兄弟)で、父の名乗りである大和守を受け継いでいたのかもしれません。
また上記と関連して、「虎頭」の別名が「昌時」とも、また日向大和守是吉なる人物の別名が「昌時」だったともいいます。いずれにせよ、武田氏の有力家臣であったことは間違いないでしょう。
日向一族は、浅原一族とは異なり武田滅亡まで武田氏に仕えたようです。
なぜ日向一族の娘が信康の側室になったのか?は浅原昌時娘同様不明ですが、武田氏出身の今川義元室、また武田信玄の嫡子・義信に嫁いだ今川義元の娘に仕えていた女性が、今川縁者の築山殿の侍女になった……とかだったらありえなくもないような気がしますね。
彼女は、信康との間に男子・萬千代を儲けたとも言います。萬千代がどうなったのかは分かりませんが、幼名しか伝わってないことを見ると、相当幼くして亡くなった可能性も否定できないでしょう。
彼女はこの子を産んだことで徳姫、家康、また信康のお目付け役であった酒井忠次ににらまれて、信康から引き離されて酒井氏の屋敷にうつされたとも言います。
日向大和守時昌の娘が信康死後、どうなったのかは不明です。息子・萬千代を育てながら尼として後半生を過ごしたのか、あるいは誰かと再婚したのか。あるいは―口封じされたのか。
そもそも実在も怪しい女性ですが、せめて幸せに生涯を終えたと信じたいですね。
松平信康の側室?:あやめ(武田氏間者・減敬の娘)
松平信康の側室として、創作などで名前が出てくるのが「あやめ」なる女性ですね。
彼女は「徳姫の手紙」で築山殿の不倫相手として名指しされた武田氏の間者(スパイ)・医師減敬の娘で、その縁で信康の側室になったといいます。
ただ上記「信康側室・日向大和守娘」や、「築山殿の密通相手・減敬」に関する記述などは江戸時代の『三河物語』などに出てきますが、減敬の娘については、特に指摘がありません。
おそらく大河ドラマや歴史小説内で、そちらのほうがセンセーショナルだから採用された話でしょう。
松平信康の子供と子孫たち
松平信康は正室・徳姫との間に二人の娘を、そして側室との間に一人の男子を儲けていたといいます。
この子供たちは信康の子孫を残したのでしょうか。気になったので調べてみました。
松平信康の長女:登久姫(小笠原秀政正室)
信康の長女・登久姫は信濃国守護の家系であった家康家臣・小笠原秀政に嫁いでいます。
彼女はこの夫との間に六男二女!と大勢の子供を儲けました。
彼女の息子たちの子孫は、小倉藩小笠原氏、中津藩→安志藩小笠原氏として幕末まで続きました。
女系で蜂須賀氏(娘・万姫や孫娘・繁姫の嫁ぎ先)、鳥取藩主池田氏(万姫の娘・三保姫の嫁ぎ先)につながっており、さらに万姫・三保姫の血筋が公家・勧修寺家につながったことで、天皇家ともつながりを持ちました。
現在の天皇家は、登久姫を通して、松平信康の子孫でもあります。(三保姫の子孫・勧修寺婧子が江戸時代後期の仁孝天皇生母)
松平信康の次女:熊姫(国姫とも、本多忠政正室)
信康の次女・熊姫は、徳川四天王の一人としても知られる徳川家臣・本多忠勝の長男にあたる本多忠政に嫁いでいます。
彼女も姉同様に子に恵まれ、三男二女を産んでいます。
彼女の息子・忠刻は二代目将軍徳川秀忠の長女・千姫の再婚相手としても有名ですね。
忠刻と千姫の間に生まれた娘・勝姫は岡山藩主池田氏に嫁いでいます。
熊姫の孫・勝姫の子孫は公家・一条家とつながり、さらにそこから水戸徳川家へとつながり、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜へといたることになります。
松平信康の長男:萬千代
信康には側室腹の息子・萬千代がいたといいます。幼名しか伝わってないことなどから、おそらく早世したと考えられます。
もしかしたら大人になっていたかもしれませんが、家康からしてみたら、後ろ暗い死に方をした息子の子を取り立てることはできなかったでしょうし、すでに後継者に三男・秀忠を任命していましたから、表立って世話することもなかったのでしょうね。
当然ながら萬千代の子孫も伝わっていません。
ちなみに萬千代という名前ですが、実は同時代にもう一人その名前を持っていた人物がいます。
幼名・井伊萬(万)千代であった徳川四天王の一人・井伊直政ですね。
築山殿は一説には井伊氏の流れをくむとも(築山殿の母はもともと井伊氏で、義元の側室となったのちに義元の縁者として関口氏に嫁いだという説があります)いいます。
もしかしたら意識してそのような名前が付けられたのかもしれませんね。