父の没落を見ることはなく 春華門院昇子内親王

女院

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院政期、莫大な所領を所有していたことで知られるのが、八条院こと鳥羽天皇皇女・暲子内親王でした。

彼女の遺領を引き継いだのが、後鳥羽天皇唯一の正嫡の娘・春華門院昇子内親王です。

後鳥羽天皇の嫡女として生まれて

春華門院 昇子 後鳥羽第一女 母月輪関白第一女宜秋門院 建久六十十六 為内親王 勅別当権大納言良経 同七四十六准三宮 同年十二五 入御八条院 承元二八八 為皇后宮 十四 同三四廿五 院号 十五 建暦元十一八 御事 十七

引用:『女院小伝』

昇子内親王は、後鳥羽天皇と、その第一の妻であった中宮・九条任子との間に唯一生まれた娘でした。また、後鳥羽天皇の数多くの子供たちの中でも、最初に生まれた子供でもありました。

中宮腹の嫡女として生まれた彼女は生まれてすぐに内親王宣下、その翌年には准三宮に任ぜられるなど、当時の皇族女性としてもかなり異例の厚遇を受けています。

しかし、彼女の誕生は同時に悲劇をも呼び込みました。

歴史にifはありません。ありませんが、彼女がもしも男児として生まれていたならば、もしかしたら承久の乱が起きなかったかもしれません。

彼女が男児であったならば、頼朝と親交があった九条兼実は失脚することもなかったでしょう。また幕府に対して好戦的でもあった順徳天皇は即位することもなかったでしょう。

彼女が男児ではなく、女児として生まれたこと、そして、祖父兼実の政敵・土御門(源)通親の養女・在子が男児を産んだことが、母任子と兼実の運命を大きくゆがめました。

彼女の生まれた翌年、祖父兼実は失脚、母任子も後鳥羽天皇のもとから退出します。

その少し前に、昇子内親王は母の手から引き離され、後鳥羽天皇の大叔母にあたる八条院のもとに送られていました。

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八条女院の養女となる

此年八月八日。中宮〔任子〕御産トノノジリケリ。イカバカリカハ御祈前代ニモ過タリケリ。サレド皇女〔昇子内親王〕ヲウミマイラセラレテ。殿ハ口ヲシクヲボシケリ。

八條院〔暲子内親王〕ヤガテ養ヒマイラセテ。タテバヒカル。イレバヒカル程ノ末代。上下貴賤ノ女房カカル御ミメナシ。御クシナドノヨタケ。サコソトゾ世ニハ云ケル。

院モアマリナルホドノムスメカナト思召テ。ツネニムカヘ奉リテ見マイラセテハ。御心ヲユカシ給ケリ。後ニハ院号アリテ春花門院ト申ケリ。コノ門ノ名ヲゾ人カタブキケル。

引用:『愚管抄』

母方の一族は失脚しましたけれど、後鳥羽天皇自身は自身の長女にあたる昇子内親王に、出来る限りのことをしてやりたいとは考えていたようです。

昇子内親王は当時の女院たちの中でも莫大な所領を持っていたことで知られる八条院のもとで養育されることになります。後鳥羽天皇は、昇子内親王を八条院の後継者に仕立て上げようとしたのです。

しかし当時八条院は、亡き以仁王の娘(三条姫宮)を20年ほど育てていたこともあり、いきなり手元に預けられた昇子内親王よりも、この三条姫宮への遺領継承を望みます。

ちなみに八条院はこの年の正月に一時的に危篤に陥っていますが、この時には彼女へ領地の多くを譲っています。

皇族の重鎮といえる女性の望みでしたから、後鳥羽天皇はおそらく渋々ですが、昇子内親王への直接贈与をあきらめ八条院→三条姫宮→昇子内親王という順番でならOK!と三条姫宮への遺領継承を認めました。

とはいえど、八条院も昇子内親王を粗略に扱ったわけではありません。

八条院は昇子内親王にもいくつか所領を譲ったりしています。(そのことで不満に思った三条姫宮が昇子内親王に呪詛をかけたといううわさが出たこともあったそうです……)

もしもこのまま八条院が亡くなれば、あるいは三条姫宮と昇子内親王との間で熾烈な領地争いも展開されたかもしれませんが、その心配は杞憂に終わります。

元久元年(1204)に、三条姫宮が八条院に先立って急死するのです。

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悲しみに暮れる八条院は、最終的に昇子内親王へ自身の領地の大部分を譲ることとなりました。

ライバルがいなくなったこともあってか、昇子内親王は八条院の手元でのびのびと育ちます。

ちなみに『愚管抄』によると大層な美女であったとか。(『愚管抄』の筆者慈円は昇子内親王の大叔父ですから身内びいきもあるような気もしますが……。)

その後、建暦元年(1211)に八条院は亡くなり、昇子内親王は八条院領の後継者となります。

ちなみにこれに先立つこと3年前にあたる承元二年(1208)には異母弟順徳天皇の准母となり、翌三年には院号宣下を受けるなど、昇子内親王は内親王としての栄華を極めたように思われました。

春華門院の死

サテ大嘗會ヲコナハレントシケルニ。朱雀門俄ニクヅレヲチタリケル上ニ。春花門院〔昇子内親王〕ウセサセ給テ。御服仮モ出キニケレバ。次ノ年ニノビニケリ。

引用:『愚管抄』

しかし異母弟順徳天皇が即位し、そして八条院の亡くなった建暦元年、まさにその年の11月に、春華門院は体調を崩します。

そのまま回復することなく、彼女は若くして亡くなりました。この時、彼女は17歳でした。

『明月記』によると、彼女の死の際には、八条院が怨霊として現れ、自身の死の際とはあまりに違う周囲の人々に、様々な恨み言を言ったといいます。

この風聞が真実かどうかは分かりませんが、八条院にとって、春華門院は養女でありながらも、三条姫宮とは異なりあまり親しみが持てなかったのかもしれないですね。

彼女が受け継いだ八条院領は異母弟・順徳天皇に受け継がれ、その後また新たな女院に受け継がれることになるのですが、それはまた別の話。

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実は彼女の墓はここだ!と確定はされていません。ただ有力な候補地としてあげられているのが、「浄菩提院塚陵墓参考地」です。

浄菩提院塚陵墓参考地の近くには後鳥羽院の名前の由来にもなった鳥羽殿という離宮があったといいます。

後鳥羽院としては、自身の住まう御所の近くに、娘を葬ることで、娘のことを感じていたかったのかもしれませんね。

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