平家物語を代表する悲恋……というのを一つ決めるのを非常に困難ですが、おそらくその候補の中に、「小督」の逸話は入ってくるでしょう。
寵姫葵の前を亡くした高倉天皇の前に現れた宮中一の美女・小督。
高倉天皇は小督にのめりこみますが、しかし平家の怒りは激しく、小督は身を隠す。
悲しむ天皇を見かねた側近により、小督は隠れ家からひそかに天皇のもとに戻るも、再度清盛の怒りを買い、二人はついぞ永劫に引き裂かれる―
実に悲しく美しい話ですが、その二人の別離のきっかけとなったのが、二人の間に生まれた皇女・範子内親王の存在でもありました。
平家ににらまれた皇女・坊門院範子内親王についてみていきましょう。
父は高倉天皇、母は小督局
坊門院範子 土御門准母 高倉第一女(二顕広記) 母中納言成範女 治承二六廿七 為内親王 勅別当越前守藤雅隆 同日賀茂斎院 養和元正十四退下 依高倉崩也 建久九三三 為皇后宮 依准母也 二十一 建永元九二庚辰 院号 卅 承元四四十二御事 卅四
引用:『女院小伝』
坊門院範子内親王の父は清盛の義理の甥(清盛継室時子の異母妹滋子の子)である高倉天皇でした。
このころすでに高倉天皇は清盛の娘・建礼門院平徳子と結婚していましたが、まだ二人の間に子供はいませんでした。
高倉天皇は当時、自身の乳母であったという帥局(輔局とも)との間に第一皇女功子内親王を儲けたばかりでした。
同時期に、平家物語では、葵の前なる女性を寵愛していましたが、亡くしたといいます。
範子内親王の母・小督は平治の乱で自害に追い込まれた信西の孫娘にあたります。
小督の父・藤原成範は後白河院の乳母子で、信西生前は清盛の娘と婚約をしていたこともありました。
信西死後は流罪に処せられ、権勢は衰えますが、その後赦免され公卿になり、桜町中納言と呼ばれるようになります。
さてそんな小督ですが、清盛の娘婿である冷泉隆房と恋仲になっていたのですが、いつのまにか高倉天皇の寵姫に治まります。
さすがに2人続けて清盛の娘婿を奪ったことと、建礼門院よりも先に身籠ってしまったことがネックとなったのでしょう。
しかも小督の妊娠期間中には、鹿ケ谷の陰謀も起こっています。
生まれた子は清盛からすると幸いにして女子でしたが、再び身籠ることがあれば次こそ分かりません。
小督は範子内親王出産後、それからほどなくして出家する羽目になります。
幼くして両親と別れ、賀茂斎院に
母から引き離されていた範子内親王は、乳母の父である猫間中納言・藤原光隆の七条坊門邸にて養育されました。
しかし生まれてから1年もたたないうちに賀茂齋院に卜定されます。
この時、賀茂斎院は、前斎院頌子内親王(鳥羽院皇女)が病により退下した後、何年もの間空位が続いていました。
ようやく天皇の皇女が生まれたから、すぐにでも賀茂斎院を任命したかったのでしょう。
治承四年(1180年)に、わずか3歳にして範子内親王は賀茂斎院として紫野の斎院御所に入ります。
しかし翌年の養和元年(1181)、父高倉上皇の死により、退下することとなります。
こうして彼女は生まれてすぐ母と生き別れ、父の臨終を知ることなく父とも4歳で死に別れることとなります。
おそらく、範子内親王には父の記憶も母の記憶もなかったのではないでしょうか?
前斎院・頌子内親王との交流
退下後、範子内親王は再び猫間中納言の七条坊門邸にて生活したようです。
しかし、そんな範子内親王を気にかけてくれた女性がいました。
それが範子内親王の前任の斎院であった、鳥羽院皇女頌子内親王です。
彼女は、元暦元年(1184年)の出家後に、範子内親王に自らが住んでいた五辻御所を譲渡したとも言います。
このころには、平家もすでに都におらず、範子内親王は高倉院皇女、前斎院として悠々と暮らせるようになっていました。
つかの間の栄華と早すぎる死
範子内親王は後鳥羽天皇即位後、建久六年(1195)に准三宮となります。
そして建久九年(1198年)土御門天皇即位時に土御門天皇准母となり、その後建永元年(1206)に、女院号宣下を受け、坊門院となります。
後鳥羽上皇の姉として、土御門天皇准母として、彼女の前途は明るいものだったでしょう。
もしかしたら、叔母宣陽門院や、大叔母八条院のように、政治にも影響を与えることもできたのかもしれません。
しかし、幕引きはあまりにあっけなく訪れました。
京都飛脚參著去四日、坊門院、〈院御姉〉、於一條室町故皇大后宮御所崩仍南山御幸、延引之由申
引用:『吾妻鏡』
早旦或人云、坊門院(範子)去夜半崩給了云〃、此一兩日雖悩胸給、非殊事、大略頓滅云〃、御年卅四云〃
引用:『猪熊関白記』
承元四年(1210)、坊門院範子内親王は一条室町の自身の邸宅にて急死します。
わずか1日ほど寝込んだだけで、「頓滅」と呼ばれるように急変して亡くなったようです。
当時の人は死期をさとると出家することも多かったのですが、どうも出家や受戒すらかなわないほど急なものだったようですね。
昏黒、行向高倉院督殿(小督)宿所<皇后宮(範子)御母儀>、月来病悩、被待時之由聞之、年来於此辺聞馴之人也、仍訪之、女房出逢、即帰宿所、
引用:『明月記』
彼女の死に先立つこと5年前の元久二年、母の小督は病で床に伏していたといいます。
坊門院の死は小督の死よりも前のことだったのか、後のことだったのか、分かりませんが、会った記憶のない母を追うように、早くその命を終えてしまったのかもしれません。