北条義時の母は、前田家本『平氏系図』によると、「伊東入道の娘」とあります。
北条時政の前妻だったと思われる伊東入道の娘ですが、後妻の牧の方と違って影が薄く、『吾妻鏡』等、史料には全くと言っていいほど姿が見えません。
そんな影の薄い「伊東入道の娘」について、調べてみました。
伊東入道=伊東祐親?伊東祐家?
不意在彼陣亦伊東二郎祐親法師、率三百餘騎、宿于武衛陣之後山兮、欲奉襲之三浦輩者、依及暁天、宿丸子河邊、遣郎從等、焼失景
引用:『吾妻鏡』
伊東入道は、一般的に伊東祐親のことを指すと言われています。
伊東祐親自身は、治承四年(1180)8月以前に出家していることが分かっているため「伊東入道(出家している伊東氏の人)」という名前は確かに当てはまります。
吾妻鏡では、「伊東祐親次郎法師」または「伊東二郎祐親法師」とも称されていたようです。法師=僧侶ですから、「伊東入道」と呼ばれていてもおかしくないでしょう。
先年斬られ参らせ候ひし伊東の入道が孫、五つや三つにて、父河津に後れ、継父曽我の太郎が許に養じ置きぬ。
引用:『曽我物語』
また、『曽我物語』などでも「伊東入道」という呼称が使われているようですね。
伊東祐親自身は生年不明の人物ですが、彼の娘の一人が三浦義澄(1127年生まれ)に嫁いでいることを考えると、1138年生まれの北条時政に嫁いだ娘がいたとしてもまったくおかしくないでしょう。
ただ、伊東入道とは実は伊東祐親の父、伊東祐家のことを指すのではないか?とする説もあるようです。
ただ、伊東祐家自身は、父親に先立って、子供の祐親を残して早世していることが知られていますので、亡くなるまでの短い期間で出家していたのか?と疑問ではあります。
伊東祐親は各種資料で「伊東入道」と呼ばれていることが分かっていますので、ここは素直に伊東祐親=伊東入道で間違いないように思われます。
伊東入道の娘(北条時政前室)の所生の子供たちは誰?
伊東入道の娘は、北条時政との間に二代目執権・北条義時を産んだと伝わります。
また、北条時政の最初の嫡子であった北条宗時もまた、伊東入道の娘の所生だったことは間違いないでしょう。
鎌倉幕府の3代目将軍・源実朝の乳母であった義時の妹・阿波局も、一説には義時の同母妹だと言われています。
ただ、伊東入道の娘に、他に子供がいたかというと不明瞭です。
北条政子と北条義時の年齢差(6歳)を考えるならば、十分に北条政子は伊東入道の娘の所生であってもおかしくないのですが……。
しかし、平氏系図等には、政子の母親について言及がないため、伊東入道の娘と北条政子に血のつながりがあるかは全く分かりません。
伊東入道の娘(北条時政前室)はいつ亡くなったのか?
北条時政前室・伊東入道の娘がいつ亡くなったのかは全く分かりません。
ただ、伊東祐親の助命嘆願を娘婿であるはずの北条時政は行わず、一方で同じく祐親の娘婿である三浦義澄が行ったことを考えるならば、少なくとも養和二年(1182)に、伊東祐親が自害した際には、すでに伊東入道の娘は亡くなっていたことだと思われます。
もしもこの時時政の前室が生きていたならば、おそらく北条時政も助命嘆願を行った可能性が高いでしょう。
北条時政と後妻の牧の方がいつ結婚したのかは分かりません。
ただ、牧の方の息子の政範が文治五年(1189)生まれであることなどを考えるならば、牧の方と北条時政の結婚も1180年以降のことだと考えらます。
やはり北条時政前室は、北条家が頼朝と結託して勢力を伸ばしていった時代にはすでに故人となっていたと思われます。
北条時政前室の死が、もしかしたら伊東-北条のつながりを弱めさせ、最終的に平家方の伊東家、源氏方の北条家、という構造が生まれていったのかもしれませんね。
もしも北条時政前室・伊東入道の娘が長生きしていたら、時政と伊東家の関係はより強いと思われます。
北条時政も、いくら娘婿だからと言っても、果たして頼朝の味方になったのか?
その意味では、伊東入道の娘の死は、鎌倉幕府成立にも大きく寄与しているといいでしょう。