人生万事塞翁が馬 七条院 坊門(藤原)殖子

女院

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彼女の人生は、おそらく息子が皇位について以後は安穏な時期が多かったのではないでしょうか。
そして息子が失脚した後は、今度は別の息子が治天の君となりました。
故に彼女は尊重され続けました。―たとえ、二度と我が子に会えなくても。

彼女の子供たちほど天皇家に振り回され、天皇家を振り回しかき乱した存在もいないように思います。

彼女の名前は坊門殖子。最初は建礼門院に仕え、兵衛督君と呼ばれていました。

七条院 藤殖子 高倉妃 後鳥羽後高倉母 修理大夫信隆女 母贈正一位休子 建久元四十九 叙従三 元典侍 年三十四 同日准三后 同二十二日 己巳 院号 元久二十一八 庚寅 為尼 四十八 真如智 安貞二九十六 御事
『女院小伝』より

 

御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御諱は尊成、これは高倉院第四の御子、御母は七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめ也。高倉院御位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられし程に、忍びて御覧じはなたずや有けん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ。
『増鏡』より

平家に振り回された前半生

彼女が建礼門院に仕えていたのは、おそらく父の後妻(彼女の継母)が、平清盛の娘だったということが大きいのではないでしょうか。
彼女が建礼門院に仕えた後に、典侍として高倉天皇の後宮に入ったのも、それが影響していたのではないのかなと思います。
徳子の子供はのちの安徳天皇一人だけですので、平家ゆかりの皇子を増やしたい―と考えたときに、建礼門院の義理の姪でもある殖子はちょうどよい女性と言えるでしょう。
とはいえど高倉天皇の子供を二人以上生んでいるのは、この殖子だけですので、子供の数だけでいえることではありませんが、かなり寵愛されたのではないでしょうか。

しかし、彼女が2人目の皇子を生んだあと、半年もたたないうちに高倉天皇は亡くなってしまいます。この時、殖子は24歳。
そのわずか2年後に平家と安徳天皇は都落ちしますが、彼女の生んだ守貞親王は、平知盛(平家の棟梁・平宗盛と建礼門院の同母弟)の正室・治部卿局のもとで育てられていたため、西国へ連れ去られてしまいます。
しかし彼女の手元に残っていた皇子・尊成親王は、祖父の後白河天皇の肝いりで、安徳天皇の存命中にもかかわらず即位しました。

この子がのちに「後鳥羽天皇」と呼ばれることになる天皇です。
一方の子を手放しながらも、一方の子は栄華を得たわけです。千々に乱れる心境だったでしょう。

1185年、平家は滅亡し、安徳天皇もまた亡くなりました。守貞親王もなんとか帰京し、殖子はさぞや落ち着いたことでしょう。
守貞親王帰京時にはすでに弟の後鳥羽天皇が即位していたため、守貞親王は安徳天皇亡き後長子でありながら皇位につくことはできませんでしたが、妻をめとり、穏やかに過ごしました。

新たなる戦乱の足音

七条院は後鳥羽天皇から、水無瀬殿などの邸宅を譲ってもらうなど、後鳥羽天皇の施政下で非常に尊重されました。

後鳥羽天皇は祖父亡き後、朝廷の主導権を握り、長きにわたって精力的に院政を行いました。
約30年にわたるその院政で、彼は積極的に政務に取り組み、また新古今和歌集の撰修などの文化的活動に取り組みました。

また祖父に似たのでしょうか、多くの女性を寵愛し―摂関家の娘から、白拍子まで、多くの女性を寵愛しました。

そんな、やりたい放題な後鳥羽天皇からすれば、何かと目障りな存在が一つありました。

それは、ある時は、後鳥羽天皇が寵姫の白拍子・亀菊の所領にいる地頭を廃してくれ、と言っても聞き遂げてくれず。
皇子を将軍によこしてくれ、というから様々な条件をつけたけれども聞き遂げてくれず。

―すでに源氏3代の将軍が絶え、摂家から傀儡将軍を迎えていた、北条義時率いる鎌倉幕府。
1221年、承久3年、後鳥羽天皇は北条義時追討の院宣を出します。

……その結果は、皆様ご存じのとおりです。

鎌倉幕府に振り回された晩年

すべてが終わった後。

後鳥羽天皇は隠岐島に配流となり、さらに後鳥羽天皇の子、土御門天皇と順徳天皇までも流刑、そして順徳天皇の子仲恭天皇も廃されました。
さらに後鳥羽天皇の皇子の頼仁親王も備前国に配流となります。さらに甥(弟の信清の子)の忠信も越後国に流罪となります。
彼女の親族の多くが、後鳥羽天皇に連座し、散り散りになりました。

皇統から後鳥羽天皇の血統が徹底的に廃された後、新たに天皇に据えられたのは、茂仁王。
彼は、平家とともに西国を流浪した、七条院のもう一人の息子、守貞親王の息子でした。
それにともなって、当時すでに出家していた守貞親王が便宜上治天の君として、院政を行いました。

七条院は何を思ったでしょうか。息子の無謀に巻き込まれなかったわが身の幸運を喜んだでしょうか。……二度と我が子に会えないと、知っていたのでしょうか。

承久の乱後の混乱を必死に治めた守貞親王は、結局その2年後に七条院に先立って亡くなります。

七条院も、それから5年後に亡くなりました。

彼女の遺産は、後鳥羽天皇の妻・修明門院に譲られたそうです。
七条院が義母に清盛の娘を持つ、平家に縁深い女性だと前にも述べましたが、この女性もまた平家一門の母親をもつ女性です。
後鳥羽天皇含め天皇家はひそやかに平家の流れをくんでいたんだなあ、と考えると少し面白いですね。
(後々出てくる後嵯峨天皇中宮の大宮院も地味に平清盛の子孫だったりします……)

また、彼女自身は失脚することなく、最期まで栄華のうちにありましたが、その代わりといっていいのか非常に別れの多い人生でもあるように思います。
若くして夫(主)を失い、かつての女主人を失い、そして子供、弟、甥、親族―
身近に残された息子も彼女に先立ちます。

栄華のただなかに一人取り残されたかのような一生……
それは果たして幸福だったのか、苦痛だったのか。もはや誰もわかりません。

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