謎に満ちた信長の妻 帰蝶(濃姫)

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

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いろいろありましたが、大河ドラマ「麒麟が来る」が始まりましたね。
川口春奈さん演じる帰蝶がさっそく出てきましたが、この女性、よくわからないことが多すぎるのです。

帰蝶(濃姫)の名前

彼女の名前、とされる濃姫はまず「美濃の姫」というくらいの意味なので、おそらく本名ではありません。
江戸時代に成立した書物では、「帰蝶」もしくは「胡蝶」とされています。とは言えど、あくまでも江戸時代の書物なので、どこまで信用していいかもわかりませんが。
美濃の鷺山城から嫁いだため、「鷺山殿」と呼ばれていた、ともされています。

とりあえず文中では「帰蝶」とさせていただきます。

帰蝶(濃姫)の出自

斎藤道三と正室の小見の方との間に、1535年ごろ生まれた娘とされています。
織田信長との婚姻の約束は、1544年ごろに結ばれたといわれていますが、
そのあと、1546年ごろに、道三の主家筋の土岐頼純に道三の娘が一人嫁いでいます。
主家筋に嫁がせる娘であることから、相応の母親の出自の娘であったのでは?と考えられており、
道三と正室との間の娘は、おそらく帰蝶のみであったことから、この娘は帰蝶だったのでは?ともいわれています。
その翌年土岐頼純は亡くなっていますので、もしかしたら帰蝶は、かなり若いうちに、未亡人になったのかもしれません。

帰蝶(濃姫)と織田信長の関係

1549年ごろ、信長に斎藤道三の娘が嫁いだといわれています。
とはいえど、信長家臣の書いた、『信長公記』には、時期すらも記載がなく、信長の家臣で目付け役であった平手政秀の働きで、道三の娘と信長が結婚した、以上の記載がありません。

江戸時代の書物によると、信長の長男(母は信長の側室)の養母になったといわれています。
また、戦国時代の貴族の日記、『言継卿記』では、1569年に信長が姑にあいさつに行った、と書かれています。
また、「信長本妻」が、信長の女子を生んだ、という記載もあります。

『言継卿記』を信頼するのならば、帰蝶は男子こそ生まなかったですが、信長に尊重されていたのではないでしょうか。
また『織田信雄分限帳』という、信長次男の織田信雄の家臣や家族構成がまとめられた書物があるのですが、その中に出てくる「安土殿(あつち殿)」と呼ばれる女性は、信長母とされる「大方殿」よりも上位の序列にあることから、亡父信長正室の帰蝶では?とも言われています。
これが真実ならば、帰蝶は本能寺の変後も生き延びたということになるでしょう。
そのほかには、信長の側室の懐妊後(1556年ごろ)、離縁された、もしくは早世したなどといった説があるようです。

帰蝶(濃姫)と明智光秀の関係 帰蝶=光秀のいとこ?

一般的には、光秀の父、光綱の妹が、帰蝶の母の小見の方(明智光継娘)とされています。
しかし、この光綱なる人物が、諸系図でも名前が光国、光隆と一致しません。
光秀の妻の実家、妻木氏は美濃出身の豪族で、明智、という名前も美濃の豪族の出であることは間違いないでしょうが、光秀が本当に、帰蝶同様に、明智光継の孫であるのかは少し怪しいと言わざるを得ません。

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