明智光秀って経歴不詳なんですよね。
まず父母が不詳。子供も何人いたかよくわからない。
そんな光秀さんが、どうして織田信長に仕えることになったのでしょう。
明智光秀の最古の記録?『永禄六年諸役人附』
光源院殿御代当参衆兼足軽以下衆覚。 永禄六年五月日。
『永禄六年諸役人附』より
…(中略)…足軽衆。
山口勘助。三上。一卜軒。移飯。澤村。野村越中守。内山弥五太兵衛尉。
丹彦十郎。長井兵部少輔。薬師寺。柳澤。珍蔵主。森坊。明智。
※光源院……足利義輝(足利義昭兄、永禄八年没)の戒名
この史料は、足利義輝の家臣と、義輝没後、義昭が矢島御所など、地方で亡命政権を築いていたときの家臣の一覧では?とのことです。
この明智が光秀のことでは、と言われています。
なお将軍家において「足軽」とは、騎乗しない将軍家付きの下級武士、みたいな感じらしいです。
ちなみに後に娘のガラシャが嫁ぐ細川忠興の父・藤孝(細川幽斎)は御供衆のなかに名前が挙がっています。
御供衆は将軍側近の中でも筆頭格の役職です。
こちらはフルネームで、「細川兵部大輔藤孝」……このころはかなり身分差がありそうですが、のちのち同僚みたいになるとは、時代の流れって不思議ですよね。
ちなみに「細川兵部大輔藤孝」は御供衆として、2回名前が出ています。これは、細川藤孝(細川幽斎)が義輝・義昭の二代に仕えたということです。
しかし「明智」は後半に1回名前が出てくるだけです。このことから、明智光秀は足利義輝の時代には仕えておらず、義昭の時代に仕え始めたと考えられます。
光秀が活動し始めるのは永禄十二年(1569)年ごろから
足利義昭と織田信長は、美濃で永禄十一(1568)年の末に対面を果たしました。(この対面に光秀は尽力したといわれています。)
光秀は足利義昭の家臣でしたから、ここで織田家とのかかわりができました。
そしてこのころから、織田家中の人間と連署しての文書の発給が確認されます。
猶以定納四百石宛二相定候也、以上、
「澤文書」より
…(中略)…
(永禄十二年)四月十四日 木下藤吉郎秀吉(花押) 明智十兵衛尉光秀(花押)
賀茂庄中
ですので光秀は、織田信長とかかわりを持つようになってすぐに、織田家臣団の一員のような立場になったようです。
また、永禄十三年(1570)、越前浅井氏攻略時には光秀は先遣隊として出陣しています。
信長と出会って1~2年ほどでは?と思われますけどかなり重用されていたのではないでしょうか。
光秀の活動はこれ以後ほぼほぼ織田信長とのかかわりの中で行われます。
そう考えると光秀にとって織田信長は自分を下級武士から大抜擢してくれた恩人にもなりそうなのですが。
ちなみに
昨今ハ懸御目、快然此事候、就其我等進退之儀、御暇申上候処、……
MOA美術館所蔵の光秀書状より
という書状を元亀二年(1571)ごろに義昭の側近に送っています。
ですので、信長の家臣として働くようになってからもしばらくは義昭家臣としての立場も持っていたみたいですが、このころには足利義昭に「暇乞い」をしていたような感じです。信長家臣としてやっていきたいってことでしょうか。
このあとは丹波平定など、信長の家臣として尽力していきます。
足利将軍家に仕える前の光秀は?
諸説あるのでわかりませんが。
まず、『多聞院日記』によると、光秀は細川藤孝の中間だったとのことです。
また、『細川家記』によると、一時期越前の朝倉義景に仕えていたとも記載があります。
前者の説のほうは、一応二人とも、同時期に足利義昭に仕えていますので、その前後に仕えていたとしてもおかしくないでしょう。
後者の説のほうでは、足利義昭は織田信長に出会う前、地方に亡命していたときに朝倉義景とも関係を持っていました。
そうすると朝倉義景→足利義昭と仕官先を変えたのではないか?と推測されます。
ではその前の光秀はどうしていたのだろうか?
ここから先は、また闇の中です。
もしも光秀が土岐氏系統の明智氏の出身なら、弘治2年(1556年)と伝えられる、明智氏本拠の明智城の落城までは美濃にいたのでは?とも思われます。
そのあと朝倉家に仕えて、足利将軍家に仕えて、そして織田信長の家臣になった、のでしょうか。
それとも未知の仕官先とかがあったり……?
やっぱり謎の多い人ですよね。
参考文献
『明智光秀 史料で読む戦国史③』 八木書店 2015 藤田達生・福島克彦
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