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生家・益田家と養家・永井家
瓜生繁子(永井繁子)は、佐渡奉行属役の益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町に誕生しました。
7人兄弟でしたが、長兄・孝と繁子以外は成長しませんでした。自分の家では子供が育たないのでは、そう思った両親は、繁子5歳の時に、幕府の軍医永井玄永の養女としました。
永井家でそのまま成長し、8歳になった繁子は、1868年、徳川家当主家達の駿府転封に伴い、沼津に移ります。
そのころ、かつて米国公使館詰役人であった長兄・孝が、開拓使が女子留学生を募集しているのを知り、永井家を説得して、繁子を留学生にしたのです。
女子留学生たちとの出会い~山川捨松と津田梅子~
繁子は9歳で渡米します、彼女は津田梅子の1つ年上でした。
留学生活では、病気等々で年長の2人は早々に帰国しましたが、年少の3人、山川捨松と繁子、津田梅子の3人は留学生活を謳歌します。
繁子は10年間をアメリカで過ごします。ワシントンのジョン・アボット方に下宿し、1879年からヴァッサー大学音楽学校でピアノを学びました。
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瓜生外吉との出会い
もう一つの出会いもありました。
同じ時期にアメリカに留学していた、加賀・大聖寺藩士族の瓜生外吉との出会いです。
長兄の孝を通して出会った二人が、恋に落ちるのにそう時間はかかりませんでした。
1881年の春、女子留学生たちに帰国要請がありました。山川捨松と津田梅子は学校を卒業していないことを理由に、留学の1年延長を取り付けましたが、繁子は帰国します。
このころ繁子は健康を害していたようです。また、瓜生外吉と、このころには婚約していたようで、外吉も同年帰国していますので、結婚準備もあったのでしょう。結局、ヴァッサー大学音楽学校を卒業することはできませんでした。
翌1882年に、山川捨松と津田梅子が帰国する時には迎えに行ったりもしたようです。
その年に、彼女は瓜生外吉と結婚、「瓜生繁子」になりました。
繁子の結婚披露宴は、長兄・孝の邸宅で、盛大に行われました。この中で、山川捨松が「ベニスの商人」を演じ、大山巌に見初められるなどの出来事がありましたが……それはまた別の話。
この後、瓜生外吉との結婚生活の中で、繁子は7人の子供を産みました。
女子教育とのかかわり
結婚したといえど、繁子は家庭だけに尽力していたわけではありません。
帰国後すぐに文部省音楽取調掛に採用されました。さらに1886年には、 彼女は女子高等師範学校教員と、東京音楽学校教員を兼務し、1902年に退職するまで、約20年忙しく働きます。
また1900年の女子英学塾開校にもかかわったようです。
その後の繁子
1905年、長男・武雄が巡洋艦「松島」の爆発事故で殉職するなど、悲劇はありましたが、おおむね穏やかに過ごしたのではないかと思います。
1907年には夫・外吉が男爵になったため、繁子は男爵夫人になりました。
そんな繁子は夫に先立ち、1928年、亡くなりました。このころ夫の外吉は病に倒れており、その看病に明け暮れた繁子は、自らも癌を患ったのです。
なおこの翌年、津田梅子は亡くなっています。山川捨松(大山捨松)は先立つこと10年前、1919年に亡くなっていました。
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参考文献
『瓜生繁子: もう一人の女子留学生』 22世紀アート 2017 生田澄江
『津田梅子』 吉川弘文館 1962 山崎孝子
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