八条院 暲子 鳥羽第三女 母長実卿女美徳門院 保延四四九 為内親王 年二 敕別当中納言伊通 同五十二二十 着袴 久安二四十六 准三后 保元二五十九為尼 二十一 金剛観 金剛性 応保元十二十六 乙卯 院号 依准母直有此事兼間公卿殊有沙汰 年三十五 建暦元六御事 七十五
『女院小伝』より
そのつぎのひめ宮は暲子内親王八条院と申すなるべし。院にやがてやしなひ申させ給ひて、あさゆふの御なぐさめなるべし。をさなくて物などうつくしうおほせられて、わか宮は、春宮になりたり。われは春宮のあねに成りたりなど、おほせられければ、院はさるつかさやはあるべきなど、けうじ申させ給ひけるなどぞ、聞え侍りし。この宮、保延三年ひのとのみのとしにうまれさせ給ひて、保元二年六月御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿一とぞきこえさせ給ひし。應保元年十二月に、院号きこえさせ給ふ。二条のみかどの御母とて、后にもたゝせ給はねども、女院と申すなるべし。小一条院の春宮より院と申ししやうなるべし。このゑのみかどうまれさせ給ひてのち、永治元年十一月にや侍りけん。
『今鏡』より
幸福な少女時代~鳥羽天皇の「御なぐさめ」~
彼女は当時上皇になっていた鳥羽天皇と、その寵姫である藤原得子との間に生まれました。
母得子はその類まれなる寵愛から、のちに、美福門院の院号を賜り、権勢を誇ります。
そんな二人の間に生まれた暲子、非常にかわいがられます。
暲子内親王の上の姉、叡子内親王は高陽院の養女として、母の手元を離れていましたので、なおさらでしたでしょう。
特に父親の鳥羽天皇は、
のちにむまれさせ給へるをば、院にみづからやしなひたてまつり給ふ。
『今鏡』より
という有様で、自ら手塩にかけて育てていたようです。
父の愛は止まらず、保延六年、まだ4歳の彼女に保延6年(1140年)、わずか4歳の時に父から安楽寿院領などをもらっています。
これは後の八条院領の嚆矢となります。
女帝に?
暲子内親王の同母弟近衛天皇は、若くして子供もないまま、亡くなってしまいます。
父鳥羽天皇、母美福門院の嘆きは大層なものでした。
姫宮を女帝にやあるべきなどさへはからはせ給ふ。
『今鏡』より
二人はいっそのこと暲子内親王を女帝に……とまで考えたようです。
もしも実現していたとしたら、奈良末期の称徳天皇以来、約300年ぶりのことでした。
しかし結局、暲子内親王を女帝にすることはやめて、結局鳥羽天皇と待賢門院の第四皇子雅仁親王、そしてその長子守仁王へと皇位を継承していくことに決定します。そして美福門院の末子、姝子を守仁王の妃にしました。
この時、暲子内親王がどう思っていたのか、それは歴史書には残っていません。
女帝にならなかったことにほっとしていたのか、それとも、歯噛みしていたのか。
ちなみに彼女は後年、平家の西走後、安徳天皇に代わって女帝となる話が持ち上がったりしますが、この話も消えます。またかい!みたいな心境だったんでしょうか。
何となく称徳天皇(聖武天皇と光明皇后の成長した唯一の娘で二度女帝になる、二度目は法体での即位だった。)と似た感じを受けますね。
八条院には、道鏡的存在はいませんでしたけど……
八条院の性格
異母姉上西門院は「美人だった」くらいしかよくわからない人物なのですが、彼女については性格を表す話が残っていたりします。
百人一首の撰者の大物歌人藤原定家の姉妹である建春門院中納言(健御前)は建春門院(後白河院の妃)に仕えた後、八条院に仕えました。
彼女が書いた「たまきはる」の中では、八条院についてこのように書かれています。
人のなりも何を着よということもなかりしかば、ただ、思ひ思ひ、おりもの、からあや、ふたへあや、ただあた、ただぎぬも、わが心にしたきままにて、け、はれもなし。
『たまきはる』より
……ただ朝夕の御有様は、よるひる御袴たてまつりて、夏冬、折につけて、人などに逢はせおはしますほどの御服、常にうちたてまつりておはしましし。
女房の服装は何を着てもOK!自分も適当でOK!みたいな感じの人だったようです。鷹揚で、細かいことを気にしない性格だったみたいですね。
反平家の象徴?~以仁王と八条院~
彼女は平家全盛期からその滅亡までを見届けました。平家全盛期の中で、反平家ののろしを最初にあげただろうと思われるのは、後白河天皇の皇子・以仁王ですが、この以仁王は、八条院の猶子になっていました。
この以仁王が挙兵したとき、「以仁王の令旨」なるものが全国各地に出されましたが、全国各地の八条院領中心に出されています。この事から、おそらく八条院も以仁王の挙兵にうすうす気づき、そして暗黙の了解で協力していたのかも……なんていわれています。
八条院本人は表立って何も行動は起こしていませんが、これらの令旨がひいては木曾義仲や、源頼朝の挙兵につながった……と考えると、彼女が平家打倒において大きな影響を与えたと言ってもいいでしょう。
八条院の子供たち
八条院は未婚でしたので、実子はもっていませんでしたが、彼女は多くの養子(猶子)を持っていました。
まず1人目、八条院の甥で妹婿でもある、二条天皇。彼の准母として、彼女は尼姿でありながら女院号を得ました。
2人目、以仁王。二条天皇の異母弟で、後白河天皇即位前に生まれていた皇子でありながら親王宣下を得られなかった皇子です。
彼については前項で述べていますね。八条院の2人目の猶子と考えると、もしかしたら二条天皇の後継者になることを自負していたのかも。
3人目、三条宮姫宮。以仁王と八条院女房の三位局との間に生まれた娘です。おそらく彼女のもとで最も長く生活した娘でしたが、八条院よりも先に若くして亡くなってしまいました。
八条院は彼女に一時的に所領(安楽寿院領など)を譲ったりしており、相当愛し、期待していたのではないでしょうか。
4人目、春華門院昇子内親王。後鳥羽天皇と正后宜秋門院の唯一の娘で、生後すぐから八条院の手元で育ち、三条宮姫宮没後は八条院の所領の後継者となりました。八条院没後、その所領を引き継ぎますが、彼女は同年に亡くなりました。
かかわりの深かったと思われる人だけで4人。更に以仁王のほかの子女も保護していました。
さらに百人一首で知られる式子内親王(以仁王の同母姉)も彼女と同居していた時期があったようです。(三条宮姫宮呪詛疑惑が持ち上がり、追い出されましたが……)
鷹揚な人だったようですので、くるもの拒まずみたいなところがあったのでしょうか。
八条院領(≒安楽寿院領)とその後の天皇
八条院は父から受け継いだ安楽寿院領、母美福門院から受け継いだ所領、そして自らに寄進された所領全部で220か所以上にも及ぶ膨大な所領を持っていました。
彼女の所領はのちの両統迭立期に、大覚寺統に引き継がれ、彼らの経済基盤となりました。(大覚寺統の天皇と言えば後醍醐天皇が有名ですね。建武の中興!)
ちなみに八条院→春華門院昇子内親王(後鳥羽天皇嫡女)→順徳天皇(後鳥羽天皇皇子、承久の乱で佐渡に流罪)→後高倉院(後堀河天皇父)→安嘉門院(後高倉院娘)→亀山天皇(大覚寺統)→後宇多天皇(亀山天皇の息子)→昭慶門院憙子内親王(亀山天皇の娘)→後醍醐天皇
みたいな、間に女性を挟む形での伝達です。早世した春華門院はともかく、安嘉門院や昭慶門院、彼女たちもまた、八条院ほどではないですが、隠然たる権力を持ちました。
その意味では八条院のなき後も、彼女の所領は天皇家に大きな影響を与えたのです。ただ後醍醐天皇の手に渡ったために、のちの南北朝の時代に、彼女の荘園群は北朝、ひいては室町幕府の手で解体されることにもなったのですが、
それはまた別の話ですね。
誰からも尊崇され、権力に利用されようとしたこともあった八条院、しかし彼女はマイペースに、しかし自分の権力を損なうことなく、見事に平安末期の百鬼夜行・怨霊跋扈の乱世を生き抜きました。
そして彼女の残した膨大な遺産はこののちの皇統のありようにも大きな影響を与えたわけですが、本人はあの世でその有様をも楽しんでいたのでしょうか。
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来歴等々はどことなく上西門院に似ているようですが、なんだか違う……不思議な女院です。
さて、次はそんな姉と、そしてパワフルな母に挟まれてイマイチ影の薄い、高松院姝子内親王。そんな彼女の秘められた生涯をたどっていきたいですが……続きはまた別の機会に。
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