津田梅子 女子英学塾(津田塾大学)を開いた、意思を持つ女性教育家

女性史

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

津田梅子。

我が国初の女子留学生として、わずか8歳!で渡米した人物で、帰国後、のちに津田塾大学となる「女子英学塾」を開きました。

彼女の生涯や人物像について、調べてみました。

父:津田仙

津田梅子は父:津田仙、母:津田初子の間に生まれました。

父の津田仙は、もともと佐倉藩家臣小島家の出身で、桜井家に養子入りした後、幕臣の津田家に婿養子入りしました。

仙はペリーの黒船来航に衝撃を受けた後、洋学に励み、幕府の通弁に採用されました。

梅子が生まれたのは1864年、まだぎりぎり幕府があった時代です。

ちなみに「梅子」の名前はのちのち改名したもので、生まれた時の名前は「むめ(梅)」です。

父の仙は男の子の誕生を願っていたのですが女の子が生まれたのでがっくりとし、なかなか名前を付けようとしませんでした。そこで母の初子がしょうがなく、枕元にあった梅の盆栽から「むめ」と名前を付けたそうです。

お父ちゃんよ……

そんな父親でしたが、梅子が3歳の頃に半年ほど幕府の仕事で渡米し、すっかりアメリカに感銘を受けました。

当時はぎりぎり江戸時代でしたが、渡米先のサンフランシスコで髷を切り落としたそうです。

とても先進的な人物だったんですね。(ただ帰国後の梅子の財政を管理したりと、家父長的な一面も否めなかったりもするのですが。)

留学した津田梅子

父の仙は大政奉還後、民間で仕事をしていましたが、北海道開拓使の仕事にかかわるようになりました。

この時の開拓次官・黒田清隆は女子教育の重要性を重視していました。母となる女子を教育することで、次世代の育成につながると考えたのです。

今、幼稚の女子を選み、欧米の間に留学せしめんことを欲す。

黒田清隆が女子教育促進のために政府に出した意見書より

そこで、欧米への女子留学生の派遣を政府に要請、受諾されたので募集を始めました。津田仙がそこに食いつかないわけがありません。こうして幼い梅子は留学生となりました。

津田仙彌娘梅子 米國江為留學被差遣候条用意可致事 辛未十一月 開拓使

『開拓指令書』より

梅子は数え年8歳、満年齢では6歳、女子留学生の中では最年少でした。

梅子は家族と離れ、岩倉使節団とともに渡米します。なお、この留学前に彼女は士族の女子として初めて、皇后に拝謁することを許されました。

国家の期待を背負って、幼い彼女は旅路についたのです。

女子留学生たちはサンフランシスコに到着後、シカゴを経由、ワシントンにつき、そこで岩倉使節団と別れ、それぞれの下宿先に引き取られました。

梅子は最年長の吉益亮子と同じく、日本便務使官のチャールズ・ランメン宅に下宿しました。

梅子はランメン夫妻のもとで10年以上、アメリカ生活を送ります。ランメン夫妻の影響は大きく、その生活の中で梅子は洗礼を受け、プロテスタントになりました。

この生活の中で梅子はアーチャー・インスティテュートという女学校に入学、卒業しました。

なお当初は5人の女子留学生でしたが、そのうち年長の2人(吉益亮子・上田悌子)は、異国の雰囲気に馴染めず、1年もたたず帰国しました。

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ただ比較的年の若い3人、山川捨松(12歳)、永井繁子(9歳)、津田梅子の3人は異国の文化を吸収し、留学生活をまっとうしました。

またこの3人は強いきずなで結ばれ、後々梅子の助けになっていきます。

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帰国後の津田梅子~日本語を忘れる!?~

1882年、梅子は日本に帰国します。が、足掛け11年にも及ぶ生活の中で日本語を忘れてしまっていました。弟妹とも会話できず、父の仙や女学校を出ていた姉が通訳になるありさまでした。

帰国後、何とか日本語を再習得した梅子ですが、やはり英語が一番なじむ言語であったようで、この後式典などの話や残した文章、手紙等はほとんど英文のものばかりです。(数少ない日本語のスピーチは女子英学塾開校式式辞くらいだったりします。)

津田梅子、日本の女子教育に絶望する

帰国後、梅子は伊藤博文宅の家庭教師、桃夭女塾での教師生活を経て、華族女子学校に勤めるようになりました。

しかし華族女学校の生徒は華族(戦前の貴族のようなもの)や良家の子女ばかりです。

彼女たちはこの学校を卒業したら親の決めた相手に嫁ぐことになっています、つまりこの学校では「良妻賢母主義」に則った教育が行われていたのです。

それらは梅子を失望させるのに十分でした。傷心の彼女は再留学に踏み切ります。もしかしたらこの時、彼女は二度と日本に戻ってくることはないくらいに思い詰めていたかもしれません。

津田梅子、日本に戻る

津田梅子はアメリカでアリス・ベーコンに再会、交友を築きます。

アリス・ベーコンは、山川捨松の下宿先の娘で、華族女学校の英語教師を務め、そのときの経験から『日本の女性』という本を書くなど、日本と大きな関わりのある女性でした。

彼女との交流を通して、津田梅子の中の情熱が再び燃え上がります。

津田梅子、女子英学塾を開く

1900年に、津田梅子は塾生わずか10人で「女子英学塾」を発足させます。(前述のアリス・ベーコンはボランティアで教師を務めてくれました。)

第一条:本塾は婦人の英学を専修せんとする者、並に英語教員を志望する者に対し、必要の学科を教授するを目的とす。
但し教員志望者には文部省検定に応ずべき学力を習得せしむ。

『私立女子英学塾規則』より

この規則にたがわず、かなり進歩的かつレベルの高い内容の授業を行いました。

自学自習に重きを置くなど、当時としてはかなり先進的なものでした。

軍人で華族の大山巌の妻であった大山捨松(山川捨松)、軍人瓜生外吉の妻であった瓜生繁子(永井繁子)など、女子留学生仲間の多大な支援もあり、津田梅子は何とかこの女子英学塾を軌道に乗せることができました。

また前の5000円札の顔であった新渡戸稲造も創立にかかわっており、この塾で講演を行うこともあったそうです。

津田梅子の名言・スピーチ

婦人に立派な働きを与えるこういう学校は、これからの婦人になくてはならぬものと考えまして、この塾を創立することにいたしました。
この目的をし遂げるために、ふつつかながら、わたくしは全力を注ぎ、最善を尽くしたいと存じます。

女子英学塾開校時のスピーチより

婦人らしい婦人であって、十分知識も得られましょうし、男子の学び得る程度の実力を養うこともできましょう。

女子英学塾開校時のスピーチより

女性の役割と責任は大きく変わったといえる。従来の古い訓練課程はもは
や十分ではなくなった。教育を受けている女性にとって、とてもよい機会は、社会事業や慈善事業、何よりもまず家庭の問題を正しく解決することにある。これらは皆さん一人ひとりが直面する問題である。

1906年の女子英学塾卒業式の式辞より

皆さんは広い視野を取得できた少数の幸運な女性の一人である。だからこそ、その価値を 証明しなくてはならない。

1909年の女子英学塾卒業式の式辞より

Storm last night.(昨夜は嵐。)

津田梅子が死ぬ前に手帳に書き残した言葉。

津田梅子の墓

病気を理由に、女子英学塾の校長を退いた後、鎌倉で隠居・闘病生活を送った末に梅子は亡くなりました。

津田梅子は津田塾大学の小平キャンパスに葬られています。これは梅子の遺言によるものだとか。

ちなみに津田梅子の墓にお参りすると、恋人ができず結婚できなくなる、なんて噂があるそうです。津田梅子が独身だったから、そのような噂が立ったんでしょうか。


第10巻 津田梅子: レジェンド・ストーリー

参考文献

『日本女性史事典』 三省堂 1984 円地文子(監修)

『津田梅子』 吉川弘文館 1962 山崎孝子

 

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