摂関政治の覇者の娘 上東門院 藤原彰子 その生涯について

古代史(日本史)

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号東北院 上東門院 藤彰子 一条后 後一条後朱雀母 法成寺関白第一女 母左大臣雅信公第一女従一位倫子 長保元十一七 為女御 年十二 二年二十五為中宮十三 寛弘九二十四為皇太后二十五 寛仁二十十六為太皇太后三十一 万寿三正十九丁酉為尼 法名清浄覚 同日院号三十九 承保元十三御事 八十七或八十六 為房記八十五

『女院小伝』より

上東門院 藤原彰子の人生

東三条院詮子の姪で、藤原道長の長女。
夫となる一条天皇、そしてライバル?の一条天皇皇后定子はともにいとこでした。

母は左大臣源正信の娘で、父に天皇の妃に……とまで思われていたほどの上流貴族の女性でした。
そして父は、藤原道長、彼女が8歳の時には内覧という関白に次ぐ地位につきました。
その二人の間に生まれた彰子は、まさしく后となるために生まれたような少女でした。

彼女の前半生はバタバタです。12歳で結婚、13歳で中宮、21歳と22歳で子供を産み、24歳の時には夫の一条天皇を失います。
彼女の所生の皇子は2人とも東宮、そして天皇になりました。そして彼女も女院となります。

この堂つちみかどのすゑにあたれば、上東門院と申す也。このゝち代々の女院の院号、かどの名聞こえはべるめり。

『今鏡』より

「上東門院」の名前は内裏の「上東門」から来ていますが、彼女が出家後に住んでいた「土御門殿」が面している土御門大路が上東門から延びていることにちなんだ名前のようです。

上東門院 藤原彰子の人格

彼女個人の人格は、あまりわかりません。


一条天皇皇后定子の人柄は、清少納言が枕草子でよく伝えましたが、彼女の女房達はそのような随筆は残しませんでした。

上東門院女房衆の取りまとめ役、宮の内侍・橘良芸子
紫式部が仕えた中宮・藤原彰子には多くの女房達がいました。 道長やその妻の親族、また紫式部たちのように学識を持って仕える女房など、短期間だけでも仕えた女房も入れるならば、おそらく数十人、下手したら百人単位になるかもしれません。 それらの女房の...

とはいえど彼女の女房達は源氏物語の作者紫式部をはじめとして、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔、小式部内侍、出羽弁などのきらびやかな女房文学を生み出しました。

何個か残されているエピソードには、ライバルの皇后定子が生んだ敦康親王(一条天皇の第一皇子だが天皇にはなれず、早逝。)を、定子死去後、自らの子供のように育てた、というものがあります。


ライバルの子供を慈しむ、后としての完璧なあり様からは、どことなくアクのない、いやみのないお嬢様のような性格があるようにも見えますが。


一方で、弟頼通が実子に関白の座を継がせようとしたときに、弟教通の関白就任を強く後押しした……というエピソードもあります。

そのようなエピソードからは、どことなく東三条院に似ているようにも思われます。


そもそも敦康親王を育てていたとき、彼女には子供がまだ生まれていなかった……ということを考えると、彼女は自身に子供が生まれないかもしれない可能性を考慮したうえで、あえてライバルの子供を育てたのではないか、とも思います。(おそらく父道長はそのつもりだったでしょう。)
そう考えると、なかなかに強かな女性像がうかがえます。

東三条院が彼女の入内を後押ししたのは、もしかしたら自分に似ていたからかもしれません。

一条天皇皇后定子は、兄の没落後出家し、政治の世界から遠ざかろうとしましたが、東三条院は皇后になれずとも耐え忍びました。

彰子もまた、耐え忍ぶことができることができる女性だったのでしょう。

彼女は弟頼通と同年に死去、そして翌年頼通の跡を継いだ教通も亡くなり、時代は摂関政治から院政へと移っていきます。

まさしく摂関政治の栄枯盛衰を見守ったような一生でした。

次の女院、陽明門院は彰子の姪で、彰子の息子と結婚したいわば「嫁」です。
この女性もまた強く戦い抜いた女性でした。

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