紫式部は20才ほど年の離れた(なんなら自分と年の近い息子すらいた)受領・藤原宣孝と結婚し、娘・賢子(後に女房となり、後冷泉天皇の乳母「大弐三位」としてしられるようになる)を生みました。
さて、紫式部の夫となった宣孝ですが、紫式部と年の近い息子がいるなど、紫式部以外の女性とも結婚し、関係を持っていました。
どうも紫式部との結婚生活中も、女性の影はあったようで、紫式部は微妙な思いをすることもあったようです。
そんな藤原宣孝は、いったいどのような女性たちと結婚していたのでしょうか。
この記事では、藤原宣孝の妻・愛人たちについてまとめてみました。
藤原宣孝の妻①:紫式部
藤原宣孝は晩年、藤原為時の娘を妻に迎えていました。彼女こそがのちの紫式部ですね。
ちなみに紫式部も、宣孝もどちらも藤原良門(藤原摂関家の事実上の祖・藤原冬嗣の六男)の子孫であり、うっすらと親戚……といえなくもないような間柄でした。
二人がどのような縁で結ばれたのかはわかりません。
ただ宣孝は結婚まではかなり情熱的に求婚したようで、『紫式部集』には彼女と宣孝のやり取りが様々に描かれています。
この時すでに中年になっていた宣孝にはほかにも通う女性があり、そのことで紫式部は「この思いを受け入れてよいのかしら……」なんて思い悩むことも珍しくなかったようです。
当時は一夫多妻制とはいえ、自分が結婚しようとしている相手に、ほかにも妻がいるのはやっぱり良い気分ではないですものね。
とはいえど、父に従って越後に下っているさなかにも情熱的に文を送ってくる宣孝にほだされたのでしょう。
紫式部は父の任期明けをまたずに越後を後にし、京へ戻って宣孝と結婚しました。
当時20歳過ぎと、すでに結婚適齢期を過ぎていた紫式部でしたが、宣孝からすれば20歳以上年下の若妻ということもあり、当初はかなり睦まじく過ごしたようです。
そして二人の間には娘・賢子が生まれました。
しかし二人の結婚生活は長続きせず、宣孝は結婚からおよそ数年ではやり病によって命を落とすこととなります。
宣孝と紫式部の間に生まれた娘・賢子は母と同じように宮中の女房となり、後冷泉天皇の乳母にまでなって三位に叙せられるなど、かなり出世しました。
また母・紫式部のつつましさよりも父親・宣孝の華やかさを受け継いだのか?男性関係も華やかだったようで少なくとも2度の結婚をし、また多くの男性と交流したとも伝わります。
ちなみに賢子の子孫はのちに天皇家に結び付き、宣孝と紫式部の血を中世の天皇家へと伝えています。
藤原宣孝の妻②:藤原顕猷の娘
藤原宣孝は若いときに、下総守藤原顕猷の娘と結婚し、間に長男となる藤原隆光(973年生まれ)を儲けています。
息子・隆光は紫式部と同年代ですね……。隆光は筑前守・越前守など諸国の受領を歴任し、左京大夫までにあがりました。
隆光の子孫には大江匡房らと並んで「前の三房」と呼ばれる能吏・藤原為房がおり、為房の子孫からは甘露寺家・坊城家・万里小路家・葉室家といった公家の名門が生まれています。
藤原顕猷の娘と、宣孝の間にはほかに子供は生まれていないようです。
子供の生まれた年代を考えるならば、彼女は宣孝の最初の妻であった可能性が高く、もしかしたら隆光を生んだ後に早世してしまった、もしくは離別したのかもしれません。
藤原宣孝の妻③:平季明の娘
藤原宣孝はまた、讃岐守平季明の娘との間に、息子・藤原頼宣を設けています。
頼宣は兄・隆光同様に陸奥守などの受領となり、従四位下までに上っています。
頼宣は受領の娘(駿河守平重義の娘)と結婚し、幾人か息子たちをもうけたようですが、その子孫はあまり栄えなかったようで、『尊卑分脈』を見る限り、孫の代で彼の家系は途絶えたようです。
頼宣の異母兄・隆光や異母弟・隆佐に比べると、頼宣はあまり昇進したようには感じられず、子孫も栄えていません。
もしかしたら、頼宣、そしてその母親である平季明の娘は、あまり父・宣孝に重んじてもらえなかったのかもしれませんね。
藤原宣孝の妻④:藤原朝成の娘
藤原宣孝の妻の中で最も家柄が良いと思われるのが、息子・隆佐(隆任とも)と、権少僧都・興福寺の別当を務めた僧侶・明懐の母である中納言・藤原朝成の娘でしょう。
もしかしたら宣孝の数多い妻たちの中では、いわゆる「北の方」的な立ち位置にあったのかもしれません。
藤原朝成の娘の生んだ息子・隆佐は長男ではありませんでしたが、異母兄である頼宣よりも昇進し従三位まで上っています。
長兄・隆光ほどではありませんが子孫も栄えており、平安時代の終わりごろまでは家系が続いたようです。
ちなみに隆佐は後冷泉天皇の東宮時代の側近(春宮大進)を務めていましたが、隆佐の異母妹である紫式部の娘・賢子は後冷泉天皇の乳母を務め、さらに隆佐の同僚・高階成章(当時春宮権大進だった)と再婚しています。
隆佐は異母妹である賢子とはかなり親しくしていたのかもしれませんね。
藤原宣孝の愛人?:近江の守の娘
近江の守の娘懸想ずと聞く人の、「二心なし」とつねにいひわたりければ、うるさがりて
引用:『紫式部集』
紫式部の読んだ和歌を集めた『紫式部集』の中には、彼女が宣孝とやり取りしたと思われる和歌や、その時の状況に関することなどが述べられていることがあります。
それによると、宣孝は紫式部に「浮気心なんてないです!」なんて弁明しているにもかかわらず、「近江の守の娘」にも恋心を抱いていた……といううわさなどが立っていたようですね。
同じ受領階級(紫式部の父・為時は越後守ですね)の女性ということもあり、紫式部としてもかなり心穏やかではなかったのではないでしょうか。
この近江の守の娘と宣孝がどうなったのかはわかりません、結ばれたのか、あるいは何もないまま終わったのか。
余談ながら、『源氏物語』には光源氏の親友・頭中将の私生児として「近江の君」なる女性が出てきますよね。
彼女は風流ごとを解さない、(良く言えば)庶民的な女性、源氏物語内におけるコメディエンヌとして描かれていますが……。
もしかしたら「近江」に、あまり良い感情を持っていない紫式部はあえてこの女性を「近江の君」と呼ばれるようにしたのかもしれませんね。
藤原宣孝の妻・愛人はほかにもいたと考えられる
藤原宣孝には、母親不明の子が数人います。
一人は男子・儀明(『尊卑分脈』に名前はあるが詳細不明、名前から察するに僧籍に入れられた庶子か?)、そしてもう一人は、藤原道雅の妻となった女性で、彼女の生んだ娘「上東門院中将」と名乗りのちに中古三十六歌仙に名を連ねた和歌の名手となっています。
上東門院中将はくしくも、祖父・宣孝の妻であった紫式部ともしかしたら同僚だった……かもしれませんね。(とはいえど、上東門院中将自身は上東門院彰子の晩年の女房だと思われるので、すでに紫式部が女房仕えをやめた後に出仕していた可能性の方が高そうですが……。)
この二人はもしかしたら上記にあげた妻たちの誰かが生んだかもしれませんが、あるいはいまだ知られていない宣孝の妻、あるいは愛人が生んだ可能性も否定できません。
『紫式部集』の中には、紫式部が宣孝の通う女性たちに嫉妬するような描写もたびたび見られ、宣孝は幾人もの女性と関係を持っていたことは間違いないでしょう。