秀吉の異父弟として、彼の良きサポート役として奮闘した羽柴(豊臣)秀長。
彼には3人の実子がいましたが、3人の実子以外にも3人の養子・養女を迎えていました。
この記事では、羽柴(豊臣)秀長の3人の養子・養女たちについてまとめています。
羽柴(豊臣)秀長の養子:仙丸(丹羽長秀三男、後の藤堂高吉)
羽柴秀長が当初後継者として育てていた養子は、丹羽長秀と側室・杉若無心(元朝倉家家臣)娘との間に生まれた丹羽長秀三男・仙丸でした。
仙丸の父・丹羽長秀は織田家重臣であり、また「羽柴」の名字の由来(丹「羽」と「柴」田という二人の織田家重臣から)でもあり、本能寺の変後の山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いでも秀吉の味方でもあり続けた人物で、秀吉・秀長双方ともかかわりの深い人物でした。
また仙丸の母方の祖父・杉若無心は羽柴(豊臣)秀長の家臣でもあり、仙丸は父方・母方双方ともで秀長と深いかかわりを持っていたと言って良いでしょう。
仙丸が秀長の養子に迎え入れられたのは、秀吉が丹羽長秀との関係を深めるためであったといいます。
実際丹羽長秀は、柴田勝家らが秀吉と敵対したのとは異なり、秀吉と行動を共にしましたので、この狙いは達成されたようです。
仙丸は天正十年(1582)の本能寺の変の前後に羽柴秀長の養子となります。
秀長はこの少し前、中国攻めのころに一人息子・小一郎(与一郎)を亡くしていましたので、いずれは長女・おみや、もしくは養女・お岩とめあわせるなどして、自身の後継ぎとするつもりだったと思われます。
しかし、秀長が病の床に就いたころ、話が急変します。
秀吉は仙丸ではなく、甥(秀吉の姉・日秀の子)である辰千代(羽柴【豊臣】秀保)を秀長の後継者にしようとしたのです。
最終的に仙丸は秀長の養子から、秀長家臣・藤堂高虎の養子となります。
秀長は不憫に思ったのでしょう、彼が高虎の養子となった際に一万石を特別に分け与えたといいます。
さて、藤堂高虎の養子となった仙丸は元服して藤堂高吉と名乗るようになります。
藤堂高虎率いる藤堂家は関ヶ原の戦いでもきっちりと時流を読んで東軍に与し、大名として名を残します。
その間にかつての養父・羽柴秀長から始まる大和大納言(中納言)系の羽柴(豊臣)家は断絶していますから、それを思うと高吉は上手に勝ち馬に乗れたはず……でした。
慶長六年(1601)、養父・高虎は46歳にして実子・高次を得ます。
養父・高虎の後継者と目されていた高吉ですが、高虎の実子が生まれてしまってはもはや後継者から外れざるを得ませんでした。
養父・高虎との関係は微妙なものとなり、また高虎の死後は義弟・高次との関係が悪化します。
幕府、伊勢安濃津城主藤堂高次の請に依り、其封伊賀名張二万石を分ちて、其兄高吉に与ふ、
引用:『大日本史料』
とはいえど最終的に高吉は名張藩藤堂家の藩祖となり、彼の子孫は本家の藤堂家とは微妙な間柄ながらも、幕末まで続くこととなります。
羽柴(豊臣)秀長の養子:羽柴(豊臣)秀保(秀俊とする史料もあり)
羽柴秀長、姪秀保を養子と為す、
引用:『大日本史料』
羽柴(豊臣)秀保は、羽柴秀長の異父姉・日秀の三男で秀長の甥です。
なお、異説では日秀の夫・三好吉房(木下弥助)の庶子で、日秀の養子とも。
もしも三好吉房の庶子ならば、厳密には秀長とは血のつながりがないことになります。
秀保は秀長が病床に就いた後に養子に入り、そして秀長の死のわずか半月ほど前に、秀長の長女・おみやと結婚し、名実ともに婿養子として、秀長の後継者と目されるようになります。
彼が秀長の後継者候補トップに躍り出たため、義兄にあたる仙丸は秀長の後継者とならずに、秀長家臣・藤堂高虎の養子となることとなります。
結婚してすぐに秀長は死去、わずか13歳の秀保が大和大納言家の後継者となり、家督を継承しました。
彼は養父・秀長のように「大和中納言」の通称で呼ばれることとなりました。
秀保は、時の関白・秀次の実弟、そして秀吉の甥ということもあり、このまま長生きしていれば、順当に豊臣政権内の重要人物となっていたことでしょう。
しかし結婚から4年後、17歳で謎の死を遂げます。
前權中納言從三位羽柴秀保、大和十津川に薨ず、嗣無し、尋で、權大納言を追贈す、
引用:『大日本史料』
死因について諸説ありますが、一説には疱瘡などにかかって重体となり、地元大和国の十津川温泉に湯治に行っても良くならなかった……という説が有名ですかね。
秀保と正室・おみやの間に子供はおらず、彼の死を以て羽柴秀長から始まる大和大納言系の・羽柴(豊臣)家の血筋は途絶えることとなります。
ちなみに秀保は17歳で死去しているため、城主としての政治能力がどれほどのものだったのかは判断することが出来ません。
なぜか彼の旧領・大和国などでは、彼の悪行(妊婦の腹を裂く、とかいう武烈天皇の時からある有名なバカ王エピソードなどですね)が記録されていたりします。
すべてが本当にあったことだとは思われませんが、彼の兄・秀次の「殺生関白」の逸話などもあり、もしかしたら……と思わせるものがあるのが怖いですね。
羽柴(豊臣)秀長の養女:智勝院(お岩、羽柴小一郎【木下与一郎】正室→森忠政継室)
女 森美作守忠政朝臣室
引用:『系図纂要』
継室は大和大納言秀長が養女。
引用:『寛政重修諸家譜』
羽柴(豊臣)秀長は、長男小一郎(与一郎)の妻であった名古屋氏の娘・お岩を養女に迎えています。
お岩は名古屋因幡守高久(敦順)と、中川重政の妹・養雲院の間に生まれた娘でした。
母の養雲院は織田信次(織田信長の叔父)の末裔で、また父の名古屋高久も織田氏とのかかわりがあると言われており、織田家とゆかりのある生まれであったようです。
お岩の最初の結婚がいつごろかは分かりませんが、おそらく10歳になる前には小一郎と結婚していたのではないかと思われます。(小一郎は1582年の本能寺の変の前には亡くなっており、お岩は1575年前後生まれと伝わっているため。)
お岩の若さもあって、小一郎(与一郎)とお岩の間に子は生まれることはありませんでした。(結婚していたと言うよりも婚約状態だった可能性も高いですね。)
お岩は小一郎(与一郎)の死後、10年以上再婚することはありませんでしたが、文禄三年(1594)の春に森忠政(森蘭丸・森長可の末弟)と再婚します。
再婚相手の忠政もこの時すでに前妻・チボ(中川清秀娘)と死別しており、再婚同士の結婚でした。
忠政との関係は良好だったようで、この結婚で3人の娘と2人の息子が生まれています。
ちなみに、お岩は自身の娘に義理の姉妹である「おみや」「おきく」にちなんでなのか「お宮」「お菊」と名づけています。
森忠政と結婚したとはいえ、長年過ごしてきた羽柴(豊臣)家の思い出は大事にしたいものだったのかもしれません。
また敬愛する養父・秀長の二人の姫君のような貴婦人になってほしかったとか?
いずれにせよ羽柴家への思いを感じさせます。
森忠政との結婚後は、実家の名古屋家とも積極的にかかわっていたようで、兄の山三郎(戦国三大美少年の一人で、歌舞伎の祖・出雲阿国との関係で有名)を森家の家臣として招いたりもしています。
ただそのせいで兄の山三郎は森家家臣といさかいを起こして亡くなってしますが……。
なんだかんだありつつも、森忠政夫人として幸せに過ごしたであろうお岩ですが、慶長十二年(1607)、結婚からおよそ13年後に33歳という若さで亡くなってしまいます。
お岩の生んだ忠政の世子・忠広は子供を残すことなく早逝し、忠政の死後、森家は忠政の庶子・郷の息子である森長継が継いでいます。