浅井長政の妻(正室・継室・側室)たち

中世史(日本史)

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織田信長の妹・お市の方を妻に迎えながらも、義兄信長を裏切り、朝倉家ともども織田家に立ち向かった北近江の戦国大名・浅井長政。

彼自身は悲惨な最期を遂げることになりましたが、娘のお江(お江与、崇源院)が豊臣秀吉の甥、その後徳川秀忠に嫁いだことで、天皇家や江戸幕府将軍家にまでその血をつなぎ、子孫は栄えました。

そんな浅井長政ですが、実は有名なお市の方以外にも妻がいたと言う話があり……。

浅井長政の妻(正室・継室・側室)にはどのような人々がいたのでしょうか。一人ずつ見ていきましょう。

浅井長政の正室?(前室?):平井定武の娘

浅井家はもともと近江国の戦国大名・六角氏に臣従していました。長政自身も幼少期、六角氏に人質に取られていたと言うはなしもあります。

そんな長政は、六角氏当主・六角義賢の指示のもと、元服を迎えます。

六角氏の有力家臣である平井定武を烏帽子親として元服した長政は、そのまま平井定武の娘と結婚することになります。(この時に長政は義賢から名前を与えられ「賢政」と名乗らされていました。ややこしいので「長政」で統一します。)

浅井久政の子賢政、(長政)、其室六角義賢の部将平井加賀の女を離別するに依り、義賢、久政の属城近江佐和山城を攻略せんとし、諸将をして、其對策を講ぜしむ、

引用:『大日本史料』

この結婚生活は短く、結婚翌年に野良田の戦いで長政が六角軍をうち破ったことで破綻します。

六角氏から離反した長政は六角氏の息のかかった妻を実家の平井家に送り返しました。

彼女との間に子がいたかどうかについては諸説ありますが、一説には長政の嫡子であった浅井万福丸は平井定武の娘の所生ではとも言われています。

とはいえど、平井氏の娘との離縁が野良田の戦いがあった永禄三年(1560)あたりと思われることに対し、万福丸は永禄七年(1564)頃の生まれと言われているので、少し時系列が合わないような気もしますね。(万福丸の出生年は正確なところは分かってはいないのですが……)

浅井長政との離縁後、平井定武の娘がどうなったのかはわかっていません。

父の定武は永禄十一年(1568)ごろ、六角氏を離反し織田氏についています。もしもこの時彼女が生きていたのなら、あるいは織田家臣に再嫁した可能性もゼロではないかもしれませんね。

浅井長政の正室(継室?):お市の方(織田信秀の娘、織田信長の妹)

信長公ノ御妹浅井殿へ御輿入候ヲ、お市と申候也

引用:『織田家雑録』

小谷御方 信長公妹、初浅井ニ嫁、女子三人、後勝家ニ嫁、勝家ト一所二生害、

引用:『豊臣太閤素生記』

長政のおそらくよく知られている妻と言えば、織田信長の妹にあたるお市の方でしょう。

ちなみに異説としては信長の従姉妹で元側室だった女性が、信長の養妹として長政に嫁いだ……という説(ついでにいうなら長女茶々は信長との間に生まれた連れ子だった)という説もありますが、一応妹だと考えて話を進めていきますね。

お市の方は、長政が平井定武の娘と離縁した後の永禄七年(1564)頃、もしくは永禄十一年(1568)頃に長政に嫁いだといいます。

永禄年間の信長は美濃を攻略し、さらに足利将軍家の義昭ともやり取りをするなど本格的な上洛準備を進めていました。

尾張から京へ向かう途中にある近江の浅井氏と結ぶことは、信長の上洛という夢を叶えるためにも進められたのでしょう。

お市の産んだ子については諸説あります。彼女が確実に生んだと思われるのは、その数奇な運命で知られる浅井三姉妹―秀吉の側室、秀頼の生母となった長女・茶々(淀の方)、従兄弟の京極高次に嫁いだ次女・初、江戸幕府二代目将軍徳川秀忠の御台所となった三女・お江(お江与)―の3人の娘です。

長政の長男で、串刺し(磔)という残虐な刑で処刑された浅井万福丸もまた彼女の子ともいわれていますが、前妻・平井定武の娘の所生とも、側室の所生とも言われており、彼を産んだかは定かではありません。

長政と彼女は子供を幾人も儲けるなどそれなりに仲睦まじく生活していましたが、織田信長の上洛、そして信長と朝倉家との関係悪化によって悲劇を迎えることとなります。

おりしも、将軍を奉じて上洛した信長に対する反感が強まっており、いわゆる第一次信長包囲網が敷かれた頃合いだったのです。

浅井家は織田家を裏切り、朝倉家と結び、信長と敵対します。

浅井家の造反によって金ヶ崎で苛烈な退却戦を行う羽目になるも、信長は辛くも逃げ延び、さらに姉川の戦いで浅井・朝倉の連合軍が打ち破られることとなります。

その後一向一揆と織田軍が戦うことになったため、辛くも浅井家は織田家との和睦を果たします。

お市の方はほっとしていたかもしれませんが……結局のところ、信長は許していませんでした。

信長は浅井家の武将たちの調略をはじめ、徐々に浅井家の勢力は削られていき……。

天正元年(1573)、浅井家の居城であった小谷城は織田軍によって包囲されます。

かねてよりの盟友であった朝倉軍が救援にやってきますが、織田軍はこれ幸いと朝倉軍を追い立てて、本拠地の一乗谷まで攻め込み、まず先に越前の戦国大名・朝倉家が滅亡することとなります。

援軍の希望すら無くなった小谷城に、織田軍の猛攻が集中します。

長政の父・久政が先に自害に追いやられ、長政も覚悟を決めたのでしょう。娘たち3人と、お市の方を織田軍に引き渡します。

戦国時代、女性は実家のものと考えられていました。織田家の血をひく女性であるお市、そして娘たち3人は丁重に迎え入れられます。

この時お市は何を思ったのでしょうか。

夫を死に追いやらんとする兄を鬼のように思ったのか、あるいは兄に逆らった夫を愚かと思ったのか……。

その後、長政は自刃して果て、近江浅井家三代はここに滅亡しました。

長政の死後、織田家に戻ったお市の方は、兄・信長のもとではなく、別の兄(信長の弟)である織田信包のもとに身を寄せたとも、叔父の織田信次のもとに身を寄せ、信次の死後は岐阜城に移ったとも言います。

実家の織田家で娘たちの成長を楽しみにしていたであろうお市の方ですが、兄・信長の横死により、彼女の人生は再び動き始めることとなります。

織田家臣団の間では、柴田勝家と豊臣秀吉(当時はまだ「豊臣」ではありませんが、ややこしいので「豊臣」にしておきますね)が有力となり、徐々に対立し始めていました。

お市の方は、甥の信孝(兄・信長の三男)もしくは豊臣秀吉の仲介で、柴田勝家に嫁ぐこととなります。

この短い結婚生活がどのようなものだったのかは分かりません。

お市の方は中年にさしかかりつつある年頃、勝家に至ってはすでに還暦を超えているような状態でしたが、お市の方にとっては幸せなものだったのかもしれません。

翌年、賤ケ岳の戦いが勃発、柴田勝家は破れ、居城の北ノ庄城は豊臣秀吉の軍勢に囲まれます。

お市の方は3人の娘たちを秀吉のもとに送り届けると、勝家とともに自害することを選びました。37歳でした。

前夫の長政の時のように、彼女自身も豊臣軍に投降すると言うことはできたでしょうが、お市の方は2度目の落城では夫に殉じることを選びました。

二度目の落城で心が折れたのか、勝家への敬慕の思いゆえか、あるいは実家の織田家が秀吉に牛耳られつつあるから帰りたくなかったのか。

その心がどのようなものだったのかはよく分かりません。

いずれにせよ、遠い遠い未来で、長女・淀の方が三度目の落城を経験し、自分と同じように自害する、ということを知らずに逝けたのはよかったのかもしれませんね。

ちなみに、よくある話としてその美貌ゆえにお市に秀吉が思いを寄せていた……なんて話もありますが、実際のところよく分かりません。

勝家への再婚は秀吉のさしがねだったと言う説もありますから、もしも秀吉がお市の方に想いを寄せていたとしても、その恋心以上に秀吉にとっては自分が権力を握ることの方が大切だったのではないでしょうか。

浅井長政の側室:八重の方

浅井長政には「八重」という名前の側室がいた、と伝承に残っています。

浅井氏の小谷城の落城の際、八重は長政との息子・七郎を連れて美濃、その後はるばる尾張の牛山の地(現在の愛知県春日井市)まで落ち延びたといいます。

そのまま牛山で息子と生活していた八重の方は江戸時代の慶安3年(1650)に亡くなり、七郎の子孫は牛山浅井家を称したそうです。

浅井長政の側室:不詳

前述の八重の方ではないですが、浅井長政にはお市の方以外の女性との間に儲けたと思われる子供が幾人かいます。

ただその子供たちの母親については名前はもちろん、出自なども一切伝わっておりません。

長政の側室として長政に殉じたのか、あるいは長政との子を守るためにひそかに身を隠したのかもしれませんね。

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