紫式部をいじめていた?左衛門の内侍・橘隆子

古代史(日本史)

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『紫式部日記』には、紫式部の周りを取り巻く人々のことが多く描写されています。

その中で、紫式部との因縁が描写されているのが、一条天皇の女房だったと思われる「左衛門の内侍」という女房でした。

この女性はどのような女性だったのでしょうか?気になったので調べてみました。

左衛門の内侍と紫式部の因縁~「日本紀の局」事件~

左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ心憂きしりうごとの多う聞こえはべりし。内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」
と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、「いみじうなむ才がる」 と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。

左衛門の内侍という女性は、中宮彰子に仕えていた紫式部とは異なり、一条天皇に仕える女性でした。

内侍という女官は、天皇に近侍して天皇への伝言や天皇からの伝言を仲立ちしたり、三種の神器の一つである八咫鏡を祀った「賢所」の管理などを行う重要な役割をになっていました。

長官の尚侍は当時、后妃に准ずる地位にあり、のちに三条天皇の中宮となった彰子の妹、妍子がついていました。

このような状態ですから、事実上、次官にあたる典侍がトップで、その下で主に実務をになっていたのが内侍と思われます。

天皇の言葉を伝える役割ですから、もちろん並大抵の人では務まりません。紫式部ほどではなかったにしろ、左衛門の内侍もまた賢い女性ではあったのでしょう。

賢い女性が、自分よりも博識と思われる女性に出会ってしまった結果、こじれてしまったのかもしれませんね。

左衛門の内侍は紫式部曰く、紫式部のことを「特に理由もないのに悪く思っていた」そうです。

左衛門の内侍は、一条天皇が紫式部のことを「(このような物語を書けるのは)日本書紀の知識があるのだろうな」と語っていたことから、彼女に「日本紀の局」、つまり「日本書紀の知識をひけらかしている女」といったニュアンスのあだ名をつけたそうです。

紫式部はそのことに対し、「私は男兄弟よりも学問ができて父にこの子が男だったら……となげかれたこともあるけれど、女だからつつましく、漢字のことなんて何も知らないような顔(当時男性は漢字、女性はひらがなを使用という暗黙の了解があった)しているんですからね!」という風に述べています。

ちょっと自慢が入っているようにも思われますが、とにかく紫式部本人からしたらやってもいないことをやったように言われるのは本当に心外だったのでしょう。

紫式部は左衛門の内侍のことをどう思っていたのか?

まことにかう読ませたまひなどすること、はた、かのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。

引用:『紫式部日記』

紫式部は上記「日本紀の局」などといった左衛門の内侍発信の陰口をあまり相手にしないようにふるまっていたようです。

それでもやはり苛立ってはいたようで、彼女のことを「もの言ひの内侍」、つまり「何かと文句をつけてくる口うるさい人」だと表記しています。

左衛門の内侍、御佩刀執る。青色の無紋の唐衣、裾濃の裳、領巾、裙帯は浮線綾を櫨[糸+炎](はじだん)に染めたり。上着は菊の五重、掻練は紅、姿つきもてなし、いささかはづれて見ゆるかたはらめ、はなやかにきよげなり。

引用:『紫式部日記』

ただ紫式部は、左衛門の内侍のことをこき下ろしてばかりだったかというとそうでもなかったようですね。

中宮彰子は出産に伴って実家である土御門の屋敷に戻っていたのですが、その時に一条天皇が行幸しており、その際にお供として左衛門の内侍もついてきていました。

その際の左衛門の内侍の姿や立ち居振る舞いを、紫式部は「華やかで清浄な雰囲気がある」と賛美しています。

紫式部からすると、左衛門の内侍という女性は「あの人、黙っていたら美人なのに……。」みたいな立ち位置の女性だったのかもしれません。

左衛門の内侍は誰だったのか?

二十七日、丁丑。内に参る。「掌侍橘隆子<左衛門。>の辞退の替はり、正五位下藤原祐子<少将。>を以て任ずる由、兵部卿、宣旨を奉る」と云々。「外記無きに依りて、除目を行なふこと能はず」と云々。左府、参入せらる。御宿所に於いて謁し奉る。

引用:『権記』

さて、左衛門の内侍は実際、どのような人物だったのでしょうか。

『権記』などの記述からすると、左衛門の内侍はどうも「橘隆子」という女性だったようです。

中宮彰子づきの女房、宮の内侍や式部のおもと同様に、橘氏の出身だったようですね。

橘氏は当時すでに公卿を輩出することも無くなっており、藤原氏に比べるとかなり斜陽の位置にある一族でした。

ただ一条天皇の乳母・橘三位・橘徳子など、多くの女房達を輩出していたようです。

左衛門の内侍もまた、橘三位らの縁により一条天皇のそばに出仕するようになったのかもしれません。

彼女は彰子が中宮になった同年、長保二年(1000)頃に内侍になり、およそ10年後の寛弘七年(1010)に辞任しています。

内侍をやめた後の彼女がどうなったのかは分かりません。彼女が長きにわたって仕えていた一条天皇はその翌年に病没しています。

左衛門の内侍の夫は藤原文範?息子は藤原理方?

左衛門の内侍の結婚についてはよく分かっていません。

一説には、中納言・藤原文範の妻で藤原理方の母だったとも伝わります。

ただこれには矛盾があります。まず息子とされる藤原理方ですが、彼は実際には文範が孫を養子にしているものでした。

さらに、文範は延喜九年(909)生まれで、おそらく紫式部と同年代だと思われる左衛門の内侍の夫としてはあまりにも年を取りすぎているのです。

もしも可能性があるのだとしたら、左衛門の内侍は藤原理方の母親で、理方の実父である文範の息子・藤原為信の妻だった……くらいでしょうか。

しかしここで新たな問題も出てきます。実はこの藤原為信、紫式部の母方の祖父でもあります。(藤原文範に至っては曾祖父ですね)

もしも、年若い義理の祖母が年の近い義理の孫を憎んでいた……となるとなかなかおぞましいような気がします。

やっぱり、左衛門の内侍の結婚や夫についてはよく分からない、としていた方が幸せなような気がしますね。

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