紫式部が仕えた中宮・藤原彰子には多くの女房達がいました。
道長やその妻の親族、また紫式部たちのように学識を持って仕える女房など、短期間だけでも仕えた女房も入れるならば、おそらく数十人、下手したら百人単位になるかもしれません。
それらの女房の中でも「上臈」、つまりランクの高かった女房としては、彰子の従姉妹にあたる藤原豊子(道長の異母兄・道綱の娘)、また帥殿の御方(道長に敗れた藤原伊周の娘)などがいました。
しかし、彼女たちはおそらく、彰子の女房達の取りまとめ役ではなかったと思われます。
実務的な面で彰子の女房達を取りまとめるようなにあったと思われるのが「宮の内侍」こと橘良芸子でした。
ここでは宮の内侍・橘良芸子がどのような女性だったのか調べてみました。
宮の内侍・橘良芸子はもともと東三条院の女房だった
左大臣、奏せられて云はく、「橘朝臣良芸子<院の弁命婦。>を以て、宮の内侍と為す」と。奏聞し了んぬ。
引用:『権記』
中宮の女房の中でも、公的に役割を与えられているのが、宣旨・御匣殿・内侍の三役でした。
中宮・藤原彰子の場合は、醍醐天皇のひ孫にあたる中納言源伊陟の娘・源陟子を宣旨としていました。
宮の宣旨・源陟子は歌才に優れていたと見え、主人の彰子に代わって代詠などをすることもあったようです。
さて、その三役の一つ、内侍に任命されていたのが「宮の内侍」こと橘良芸子でした。
彼女の出自などについては、その苗字からして、橘氏出身か?ということくらいしかわかりません。
中宮彰子の上臈女房達の多くは公卿の娘(大納言、参議、中納言など)でありました。
しかし、当時の橘氏に公卿がいなかったこと(橘氏出身者最後の公卿任官者は永観元年【982年】没の橘恒平)を考えるならば、彼女は紫式部らと同じく、中流階級の娘であったと思われます。
そのような身分でありながら上臈女房格の中宮三役に任命されていた辺り、彼女の実務能力の評価の高さがうかがえるようです。
そんな宮の内侍・橘良芸子ですが、もともとは中宮彰子に仕えてはおらず、東三条院こと藤原詮子(円融天皇母、道長の姉)に仕えていました。
そのころは「弁の命婦」という中臈女房の名前を名乗っていたようです。
しかし、東三条院の姪にあたる彰子の中宮昇格にあたって、良芸子は中宮の「宮の内侍」という中宮に仕える高級女官に任命されることとなるのです。
この任命の背景には、東三条院が厚遇していた弟・道長の娘の門出を少しでも良いものとしたい、という思いもあったことでしょう。
また道長も、姉のもとにいるやり手の女房を自身の娘の側近にしたいと思っていたに違いないでしょう。
ただ宮の内侍はこの任命後も、しばらく東三条院のもとにも出仕していたようです。中宮の女房と兼任だったのでしょうかね。
当時東三条院は病臥しており、良芸子としてもそのような主人を置いていくことはできなかったのかもしれません。
東三条院は良芸子が中宮彰子の女房となった二年後、長保三年(1002)に亡くなっています。その後は良芸子は「宮の内侍」として中宮彰子のもとで腕を振るいました。
宮の内侍と紫式部
宮の内侍ぞ、またいときよげなる人。丈だちいとよきほどなるが、ゐたるさま、姿つき、いとものものしく、今めいたるやうだいにて、こまかにとりたててをかしげにも見えぬものから、いとものきよげにそびそびしく、なか高き顔して、色のあはひ白さなど、人にすぐれたり。
引用:『紫式部日記』
紫式部日記においても、宮の内侍のことは何度か登場しています。
紫式部と言えば『紫式部日記』での辛口すぎる!人物批評が有名ですが、その中では宮の内侍はけっこう褒められているようです。
宮の内侍はどうも紫式部と同年代くらいだったと思われます。彼女はとりたてて美女ではなかったようですが、現代風な装いをして威厳のある、そして清潔感のある女性だったようです。
『紫式部』日記内では、彼女が中宮彰子出産後の祝いの席で給仕役を担当したことなどが記されています。
宮の内侍・橘良芸子の妹は「式部のおもと」
式部のおもとはおとうとなり。いとふくらけさ過ぎて肥えたる人の、色いと白くにほひて、顔ぞいとこまかによくはべる。髪もいみじくうるはしくて、長くはあらざるべし、つくろひたるわざして、宮には参る。ふとりたるやうだいの、いとをかしげにもはべりしかな。まみ、額つきなど、まことにきよげなる、うち笑みたる、愛敬も多かり。
引用:『紫式部日記』
さて、宮の内侍の出自については、橘氏出身であること、おそらく中流貴族の娘であることしか分からないと述べました。
しかし『紫式部日記』によると、彼女はどうも妹と一緒に中宮彰子に仕えていたようです。
妹は「式部のおもと」という女房名(「式部」は紫式部同様に中臈女房の女房名ですね)で彰子に仕えていました。
二十七日、癸卯。忠範の妾式部、下向す。車を調へ、賜はんと欲する間に来たる。仍りて大津に至るに、宰相中将の車を賜ふ。
引用:『御堂関白記』
良芸子の妹・式部のおもとは、もともと上野介・橘忠範という同族の受領の妻でした。(妻と言っても「妾」だったようですから、妻の一人と言った感じでしょうか。)
この橘忠範は、長保二年(1000)に一条天皇の御服を新調するために巨勢広高に「五霊鳳桐」の図様を書かせた、当時の織部正・橘忠範のことでしょう。
忠範は中宮少進につくなど、中宮彰子の側近官人の一人でしたが、任地の上野国にて寛弘三年(1006)に亡くなっています。
式部のおもとはその後に、姉の縁(もしくは亡夫の縁)で出仕するようになったようです。
ただ夫・忠範存命中から「式部」という女房名で呼ばれていたようですから、もしかしたらそれ以前に一時的にでも女房をやっていたこともあるのかもしれませんね。
宮の内侍・橘良芸子の夫は源経房か?
左中将、まだ伊勢守と聞こえしとき、里におはしたりしに、端の方なりし畳をさし出でしものは、この草子載りて出でにけり。惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。
引用:『枕草子』
さて、妹の式部のおもとは同族の受領・橘忠範の妻だったようですが、良芸子の夫はどのような人物だったのでしょう?
実は、良芸子の夫についてはよく分かっていません。もしかしたら独身だった可能性もありますね。
どうも道長の妻の一人・源明子の弟にあたる「源経房」の妻ではないか?とする説もあるようですが、経房の妻には権中納言藤原懐平の娘もいるので、良芸子は正室ではなかったでしょう。
経房の姉・源明子は、良芸子のかつての主・東三条院の養女のような立場にありましたから、その縁で結ばれたのかもしれません。
経房には生母不明の子も何人かいるので、もしかしたらそれらの子の母親は良芸子かもしれません。
ちなみに源経房といえば、一条天皇皇后定子、その実家の中関白家とも懇意にしており、『枕草子』作者清少納言との交流も知られています。
ある意味主人のライバルともつながりのある夫のことを、良芸子をどう思っていたのでしょうか?気になるところではあります。