織田信長と言えば、キリスト教宣教師ルイス・フロイスとのかかわりも有名ですね。
信長はキリスト教やキリシタンに友好的だったといいますが、実際のところどうだったのでしょうか?
気になったので調べてみました。
信長はキリスト教を保護していたのか?
我が国語にて解釈すれば左の如し。「予はパードレに都に居る許可を与ふ。…(後略)…」
引用:『一五六九年六月一日附、都發、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・ベルショール・デ・フイゲイレドに贈りし書翰』
信長は永禄十二(1569)の四月八日に、宣教師ルイス・フロイスと面会しています。その際に信長はフロイスら宣教師に、畿内における宣教の許可などを発しています。
このことから、キリスト教に関しては好意的とまではいえないまでも、否定的ではなかったようです。
信長としては、ヨーロッパの文物に対する関心もあったのでしょう。鉄砲のような武器などの入手もねらっていたのかもしれません。
当時、フロイスの活動に対し仏教側はかなり警戒していたようで、日蓮宗僧侶で当時の貴顕から信仰を集めていた日乗上人は宣教師追放を信長に提言していました。
予が追放に関しては日本の君なる内裏に一任すると答へなり。
引用:『一五六九年六月一日 永祿十二年五月十七日。 附都發、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・ベルショール・デ・フイゲイレドに贈りし書翰』
それに対し信長は「朝廷の判断に任せる」との返答でした。
その後、日乗は朝廷に掛け合って、伴天連追放の綸旨を入手します。
朝廷側はもともとキリスト教に否定的で、宣教師を庇護していた室町幕府13代目将軍・足利義輝死後の永禄八年にも同様の女房奉書を出していました。
内裏及び公方様に予を庇護せんことを請ふ更に長きものを認めなり。此書簡に王の署名を附したるものを藤吉郎より予に交付せり。
引用:『 一五六九年七月十二日○永祿十二年閏五月二十八日。附、都發、パードレ・ルイス・フロイスより豊後のパードレ・ベルシヨール・デ・フイゲイレドに贈りし書翰』
しかし信長はそれに対して、改めて朝廷側に文書を出しています。
信長本人はキリスト教徒ではありませんでしたが、宣教を許すことで得られる外国からの利益をかなり重視したのでしょう。
高槻之城主高山右近たいうす門徒に候 信長公被廻御案伴天連を被召寄此時高山御忠節仕候様に可致才覚さ候はは、伴天連門徒家何方に建立候 不若御請不申候はは宗門を可被成御断絶之趣被仰出
引用:『信長公記』
信長のキリスト教に対し、あくまでも利益になるから!という姿勢は、ほかでも見受けられます。
荒木村重が謀反を起こした際に、村重家臣の高山右近を引き入れようとした信長は、呼び出した宣教師に対し、「高山右近をこちらの味方にさせてくれたら、教会をどこに建ててもいいけど、この頼みを聞き入れてくれないのならキリスト教を根絶させる!」ということを述べていたようです。
信長は石山本願寺や比叡山などを弾圧しましたが、あれはあくまでもあちら側が敵対してくるからという側面も大きかったようです。
信長に利益を与えてくれていたキリスト教に対しても、あくまでも味方であるならば否定することはなかったのでしょう。
信長とキリシタン大名
戦国時代末期、各地にはキリシタン大名が多く現れました。
九州などでは南蛮貿易が盛んにおこなわれたことなどもあり、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らが実際に西洋とのかかわりの中でキリスト教へ改宗しています。
また、畿内においても宣教師は盛んに活動していました。そのため、近畿地方でもキリシタン大名が現れています。
前述の高槻城主・高山右近や播磨国の黒田官兵衛こと黒田孝高(如水)などが有名ですね。(黒田孝高は後に禁教令が出された後に再改宗していますが……。)
そして面白いことに、信長の血縁者にもキリシタン大名が出てきています。(彼らのキリスト教入信はいずれも信長死後のことではありましたが……。)
まずは信長の娘婿であった蒲生氏郷と筒井定次。蒲生氏郷は天正十三年(1585)、筒井定次は文禄元年(1592)にキリスト教に入信しています。
ことに定次の入信は、一度目の伴天連追放令以後のことですから、かなり強い思いで洗礼を受けたのではないでしょうか。
また信長の嫡孫である岐阜中納言・織田秀信とその異母弟・秀則もまたキリシタンでした。彼らもまた、文禄四年(1595)に兄弟ともども受洗しています。
秀信は秀吉治世下では秘密裏に活動していたようですが、秀吉の死後、慶長四年(1599)頃には岐阜城下に教会などを建立したといいます。