『逃げ上手の若君』に出てくる「関東廂番」って何?

中世史(日本史)

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松井優征先生の『逃げ上手の若君』は、とても面白いですよね。2022年1月現在、コミックが4巻まで発売されていますが、そのコミック4巻で出てきたのが「関東廂番」です。

私は恥ずかしながらこの漫画で初めて「関東廂番」について知りました。

関東廂番、実際どのようなものだったのでしょうか?気になったので調べてみました。

関東廂番は鎌倉将軍府の一部門

建武の親政が行われた建武政権期に鎌倉に置かれた「鎌倉将軍府」内における、軍事部門が「関東廂番」です。

北条氏の滅亡と鎌倉陥落後、まだまだ統制の取れていない東国の支配のため、まずは義良親王と北畠親子(北畠親房・北畠顕家)によって陸奥将軍府が、そしてその後、元弘三年(1333)十二月、成良親王と足利直義によって、鎌倉将軍府が開かれたのです。

もともと東国支配は陸奥将軍府のみを通して行われるはずでしたが、北条氏がほろび、鎌倉幕府が亡くなった後であっても、やはり武士にとって鎌倉とは特別な都でした。

鎌倉にふたたび将軍府がおかれたのは、武士たちの意向が強く反映された結果だと言います。

鎌倉将軍府では、後醍醐天皇皇子・成良親王が「鎌倉府将軍」として名目上のトップに位置していました。

足利直義が「鎌倉府将軍」の下で「執権」として実務を担当し、鎌倉将軍府の運営面をになっていました。

そして足利直義の肝いりで設立されたのが「関東廂番」です。

「関東廂番」は、鎌倉の軍事を一手に担う存在であり、鎌倉周辺や東国の治安維持、反乱の鎮圧などを任務としていました。軍隊と警察あたりが一緒になっているようなものですね。

「関東廂番」の職務は軍事面だけにとどまらず、所領問題の裁判なども行っていたようです。小型の鎌倉幕府のようなものだったのかもしれませんね。

関東廂番のメンバー

「関東廂番」には、渋川義季、岩松経家、上杉憲顕、斯波孫次郎(斯波家長)、他には吉良貞家、一色頼行、石塔範家、吉良満義、高師秋ら、足利氏の一門や家臣が多く配置されました。

上記関東廂番メンバーのうち、渋川氏、岩松氏、斯波氏、吉良氏、一色氏、石塔氏は足利一門の分家、上杉氏・高氏は足利氏の直臣で、執事・探題を務めた家柄です。

一方で旧幕府系のメンバーも多く配置されています。二階堂時景ら二階堂氏、他にも三浦氏や伊東氏なども配置されています。

鎌倉の既存勢力も取り込みつつ、足利色に染めていこうとするようなメンバー構成ですね。

関東廂番メンバーはどうなったか

「関東廂番」の栄華は短いものでした。建武二年(1335)、北条時行によって中先代の乱が引き起こされます。

「関東廂番」メンバーもいやおうなく中先代の乱に巻き込まれます。

中先代の乱での「関東廂番」メンバーの死者には、一番組頭人・渋川義季、二番組頭人岩松経家、五番組頭人・石塔範家らが含まれていました。

また「関東廂番」メンバーであっても、武田長高、三浦時明、那波政家らは中先代の乱で時行側に加担しました。

中先代の乱での戦闘で、各組を統率する頭人が一気に半減しました。

さらにこの時、関東廂番を設置した鎌倉将軍府の執権・足利直義は、成良親王とともに命からがら鎌倉を落ち延びています。関東廂番だけでなく、鎌倉将軍府自体がほぼほぼ機能しなくなりました。

中先代の乱自体は短いものでしたが、関東廂番、そして建武政権下の鎌倉将軍府を壊滅に追いやるのには十分すぎるものだったのです。

関東廂番メンバーのうち、斯波孫次郎家長は中先代の乱を生き延び、北朝方として奮戦します。また、足利尊氏の息子・義詮の下で初代鎌倉執事となります。しかし、南朝の北畠顕家との戦いで戦死しました。時は建武四年(1337)、中先代の乱の2年後のことです。

上杉憲顕は、斯波孫次郎家長死後に、二代目の鎌倉執事、そして初代関東管領となりました。観応の擾乱で足利直義側についたため、一時追放されるなどの紆余曲折はありましたが、コミックス4巻に出ている関東廂番メンバーの中で唯一、天寿を全うした人物です。

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