「衣通姫」とは、その美しさが衣を通しても感じられるような美女、という意味を持ちます。
古代日本には、衣通姫の名前を持つ女性が2人知られていますが、いずれの衣通姫も幸せな人生…だった、とは手放しに言えないような人生を送っています。
2人の衣通姫について、まとめてみました。
1人目の衣通姫 允恭天皇の妃 弟姫(おとひめ)
日本書紀に名前のある衣通姫です。
允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹でしたが、その美貌で知られていました。そのため、義兄である允恭天皇も彼女のことを狙っていたのですが、皇后の忍坂大中姫は非常に嫉妬深い女性だったため、それを嫌がりました。
しかし結局、允恭天皇の策略で、弟姫は允恭天皇に嫁ぐことになります。
しかし近江坂田から迎えられた彼女は、允恭天皇の宮である遠飛鳥宮には住まず、藤原宮に住みました。しかし姉である皇后の嫉妬を理由に、さらに遠方にある河内の茅渟宮へ移り住みます。
天皇は遊猟を理由にたびたび茅渟宮に通いました。しかし、皇后がこれを諌め諭すと、(この時皇后は「嫉妬ではありません」と言っていたらしいです。確かに天皇がたびたび宮廷を空けるのは良いことではありませんが、実際どうだったんでしょうね。)以後の行幸は稀になったといいます。
忍坂大中姫は「嫉妬深い」などとは言われていますが、允恭天皇の即位を後押ししたり、強い女性であったようです。その強さは息子の雄略天皇にしっかりと受け継がれているように思われます。一方の弟姫はそんな姉に気後れしていたのか、美貌ではありましたがやや控えめな女性だったようです。
2人目の衣通姫 允恭天皇皇女 軽大郎女(かるのおおいらつめ)
『古事記』における衣通姫です。允恭天皇と皇后・忍坂大中姫の間に生まれました。
美貌で知られた彼女は、同母兄である軽太子と恋愛関係に陥ってしまいました。当時は異母兄弟姉妹なら結婚できたのですが、同母同父の兄弟姉妹は結婚できませんでした。
そして、それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となってしまいます。衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中して果てました。
なお日本書紀だと、伊予国に流刑に処されるのは軽大郎女で、軽太子は政争に負けて自害したことになっています。ちなみに軽太子は軽大郎女がいなくなった後女色におぼれたとか。やりきれませんね。
恋愛譚としては古事記のほうが美しくまとまっているような気がします。
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