平家物語の陰でひそかに…… 殷富門院 亮子内親王

女院

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

 

女院シリーズ(仮)も久しぶり……
今回の女院は、彼女本人というよりは、彼女の周りの人たちのほうが有名かな?と思われる女性です。

彼女の末弟は、平家物語の中盤の主役ともいえる以仁王。
彼女の2番目の妹は、百人一首に名を連ねる式子内親王。

百人一首には、彼女の女房「殷富門院大輔」も名を連ねたりしています。
今回の主役は、いまいち現代では影が薄い?ように思われる殷富門院です。

殷富門院 亮子 後鳥羽准母 後白河第一女 母 従三位成子 元播磨局 高倉三位 久寿三四十九 為内親王 即日為伊勢斎宮 保元三八十一退下 依天祚改也 未向伊勢年中 寿永元八十四 為皇后宮 依准母也年三十六 文治三六二十八戊戌  院号四十三 建久三十一九 為尼真如理 建保四四一 御事 七十 法金剛院 東新御堂

『女院小伝』より

恵まれているように見えて

彼女の母高倉三位こと藤原成子は、後白河天皇の母方の従姉妹で、後白河天皇が即位前で、雅仁親王と呼ばれていた時代の約10年にわたり寵愛を受けていました。
父は閑院流の出の権大納言であり、決して身分低いわけではありません。
しかし彼女は正式な后妃となることはありませんでした。

それが子供にも影響したのでしょう。高倉三位はおそらく2男3女を生んでいますが、皇女たちはいずれも斎宮もしくは斎院になるまで内親王宣下を受けられず、息子も出家しなければ親王(法親王)になれませんでした。
二女好子内親王は伊勢斎宮として伊勢に下りましたが、帰京の際に物資不足で非常に大変な目にあいます。
三女式子内親王は、屋敷を横領されたり、一時期事件に巻き込まれて洛外追放の憂き目にあいそうになります。
そして二男以仁王は……平家物語を読んだことのある人なら、ご存じではないでしょうか。

一説には休子内親王も高倉三位の所生と言われていますが、この皇女はわずか15歳で亡くなってしまいます。

亮子内親王自身や弟の守覚法親王はそのような目にあわずに済んでいるようですが、記録に残らないだけでもしかしたら何かあったのでは……

そう思うほどに、高倉三位の5人(6人?)の子供たちにはどこか不幸の香りが漂っています。

さて、話を戻して亮子内親王ですが、彼女は父の即位時に伊勢斎宮となりますが、伊勢に下る前に父が院政を行うために退位したため、京にいるままで斎宮を解任されています。
その後は治天の君の娘として、殷富門院大輔や、藤原俊成の娘たちらを女房にして、優雅な生活を送っていたようです。

見せばやな 雄島の海人の 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず

殷富門院大輔

小倉百人一首にも入っている上記の歌はいつかの歌合で読まれたものだそうですが……もしかしたらこの歌は殷富門院邸で生まれたものかもしれませんね。

父の後白河天皇は今様狂いで有名で、同母妹の式子内親王は歌人として有名ですから、彼女も和歌や今様に造詣が深かったのではないでしょうか。

光と影に満ちた後半生

安元三年、母高倉三位が亡くなります。このころ、母方の叔父の公光も亡くなりました。この叔父は10年ほど前にいきなり官職を解かれ、そこから閑居していました。
とはいえど一気に身近な親族がいなくなり、彼女は心細い思いをしたことでしょう。
それは、おそらく弟もでした。

治承四年、母の死から3年後、弟の以仁王が挙兵しました。
平家の圧力等もあり親王号を与えられず鬱屈した日々を送っていました彼は―謀反人として敗死しました。
父である後白河天皇にすら見捨てられて。―彼女には何もできませんでした。
彼の出した令旨が、各地の平家打倒の動きにつながるのですが、それはおそらく彼女からすればどうでもよいことだったのではないでしょうか。

そしてその2年後に、彼女は平家の娘を母、祖母に持つ安徳天皇の准母となります。複雑な思いだったでしょう。
しかしその安徳天皇は翌年には都落ちし、安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇が即位、彼女は引き続き後鳥羽天皇の准母になります。
さらに順徳天皇の准母にも一時期なっていたようです。(順徳天皇の准母は、当初彼女の同母妹式子内親王の予定でしたが、式子内親王が亡くなってしまったためでしょうか。のちに順徳天皇の准母には、順徳天皇自身のの異母姉昇子内親王がなるようですが……)

弟の悲劇を乗り越え、彼女は間違いなく当時の天皇家でも有数の権威のある皇女になっていたようです。本人がそれを望んだかは不明ですが。
とはいえど慰めもありました。敗死した以仁王の第2王子の養育を彼女は許されました。この子を彼女は僧侶にし、自らの御所に寺を建て、そこの住持としました。

あはれあはれ 思へばかなし つひの果て しのぶべき人 たれとなき身を

式子内親王

建保四年、死去。長姉でありながら、同母兄弟姉妹すべてを見送った後での死でした。

彼女本人の名前は現在ではあまり聞くこともありませんが、以仁王の子女たちの保護を行ったことなどを考えると、かなり同母兄弟姉妹への愛を持ったお姉さんだったのかな、という気がします。
すべてを見届けて去った彼女は、あの世で愛した兄弟姉妹に囲まれているのではないでしょうか。

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