その女の前には栄華に満ちた日々が待っているはずでした。
しかし歯車は合わず、彼女は姉や母のような栄華を手に入れることは、できませんでした。
しかし彼女は、姉が持つことがかなわなかったものをいくつか手に入れ、そしてそれがために寿命を縮めたのです。
高松院 姝子 二条后 鳥羽第四女 母美福門院 久安二二十七着袴 関白結御腰 仁平四八十八為内親王 十四 久寿三三五入太子宮 二条院十六 保元二正二十三 准三宮 十七 同四二二十一 為中宮 十九 永暦元八十九為尼 御悩故 二十 実相覚 応保二二五 癸酉院号 二十二 安元二六十三御事 三十六
『女院小伝』より
きらびやかな一族
高松院姝子内親王は、鳥羽天皇とその最愛の后、美福門院との間に生まれた末娘です。
姉はその財産から天皇家にも大いに影響を与えた八条院暲子内親王、兄は近衛天皇です。
その生まれからして、彼女には栄華もすべて、思うがままに与えられる運命があったのでしょう。
さらに彼女は、鳥羽天皇と待賢門院の間に生まれた皇女で異母姉の統子内親王の猶子にもなっていました。
おそらく彼女は、そのまま何もなければ、当代の天皇の同母妹として尊敬され、いずれ統子内親王の財産を受け継ぎ、八条院よろしく栄華を手に入れたことでしょう。
不穏の始まり
しかし、運命はじわじわと狂っていきます。
始まりは、彼女が15歳の時、兄・近衛天皇が、跡継ぎを残さず早世したのです。
両親は一度は姉の暲子内親王を女帝に据えることも画策しますが、結局ほかの皇族を天皇に据えることにします。
選ばれたのは鳥羽天皇と待賢門院の孫、守仁王です。まず守仁王の父の雅仁親王が即位、後白河天皇となり、守仁王は東宮・守仁親王となりました。
そして美福門院は、自身の末娘姝子内親王を東宮妃にしました。この時姝子内親王は16歳、守仁親王は14歳でした。
叔母と甥の結婚とはいえど2歳差、年頃も近く、うまくいくのでは、とおそらく姝子内親王含め、当時の人々はそう思っていたのではないでしょうか。
表向きは静かに
鳥羽天皇崩御後、後白河天皇の在位は長続きせず(院政を敷く目的もあったのかもしれません)、守仁親王が即位、二条天皇となります。
東宮妃の姝子内親王は、間をおかず立后、中宮になります。平治の乱の際には二条天皇とともに大内裏を脱出しています。
この頃はまだ、二条天皇と姝子内親王の仲は穏やかなものだったようです。
しかし、姝子内親王は、もともと統子内親王の猶子であったため、統子内親王や、統子内親王の弟で義父でもある後白河天皇とも強いかかわりを持っていました。
一方二条天皇は平治の乱後、父後白河天皇の影響下からの脱出、自らの親政を志すようになっていきました。
苦悩の日々
二条天皇からすると、統子内親王を通じて、後白河天皇と結びついている姝子内親王は疎ましい存在となっていたようです。
姝子内親王に代わる、新たなパートナーを探すようになったのでしょう。
永暦元年正月、亡兄近衛天皇の后であった藤原多子が二条天皇の後宮に入ったのです。
この頃より姝子内親王は体調を崩し始め、二条天皇との同居を拒み、後白河天皇所有の邸宅・白河押小路殿にこもるようになりました。
彼女はこの頃、出家を望むようになります。二条天皇とのパイプを残しておきたい後白河天皇はそれを押しとどめようとしますが、姝子内親王の体調はどんどん悪くなるばかり。
とうとう後白河天皇は出家を許可します。
先々此事御発心之由粗有其聞、然而依上皇御制止不令遂御也、
『山槐記』より
今暁中宮依御悩危急有御出家云々、院去夜有御幸、暁天還御云々、
姝子内親王は20歳で出家し、二条天皇の元に戻ることはありませんでした。
出家後、何とか体調を取り戻したようです。自分を嫌っている人と生活を送らなくてもよい、そのことからくる安堵でしょうか。
名ばかりの女院号
二条天皇からするともはや姝子内親王は関心の外のことだったでしょうが、二条天皇はこの頃、また別の妃を入内させました。
その女性の名前は藤原育子、摂関家の姫君でした。この女性を立后させるために二条天皇は自身の妻でもある(あった)姝子内親王に院号を与え、高松院とします。
さながらこれより約150年前、一条天皇の中宮定子が、時の摂関の娘藤原彰子によって皇后にまつり上げられた時のようなことが、再び起こりました。
そのことに姝子内親王が何を思ったのか、歴史書は記してはおりません。
ただ、姝子内親王は二条天皇と女官の間に生まれた第一皇子を手元に引き取り、養育をしていましたが、二条天皇は育子が猶子とした第二皇子(六条天皇)に譲位しました。
姝子内親王は最後まで、夫に拒絶されたのです。
そのあと姝子内親王は表舞台に出ることなく、静かに日々を送り、36歳で亡くなりました。その死はかなり急なものだったようで、後白河天皇は激しく驚き、嘆いたようです。
そして彼女の死について、ある噂がささやかれています。
密通の果てに
御室御弟子、高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之
『玉葉』より
後に関白となった九条兼実は自身の日記『玉葉』でこのようなことを書いています。
仁和寺の僧侶・海恵は、姝子内親王と澄憲の間に生まれた子供である、と。
そんなことあるわけないじゃないか、とは言い切れません。
まずこのことを記した九条兼実。彼の義母(妻の母)は、姝子内親王の乳母であり、兼実自身もその縁で定期的に姝子内親王のもとを訪ねていました。
つまり兼実は姝子内親王についてよく知っている人物なのです。
お相手とされる澄憲は、姝子内親王の15歳年上、僧侶でありましたが、当時の僧侶の例外に漏れず、幾人もの子供を持つ男でした。
そして彼は美声と説法のうまさで知られる当時のカリスマ僧侶であったのです。
20歳で出家した姝子内親王が、仏事に勤める中で彼とかかわることも大いにあったでしょう。
そして姝子内親王が36歳で迎えた突然の死。
その原因については、当時の人々の間では、流産もしくは出産に伴うものだったのでは、とも考えられていたようです。ちなみにこの後南北朝期に出てくる数人の女院や皇女にもこういった話が多く出てきます。そう考えるとますます、姝子内親王の密通疑惑はさもありなんという気がしてきます。
さて、姝子内親王の秘密の恋の相手だったかもしれない澄憲ですが、姝子内親王の死後に、何度も姝子内親王の追善供養を行っています。
嗚呼悲哉、露未乾、露今速消。
金沢文庫蔵、澄憲『上素帖』 「高松院御周忌表」より
二条天皇からはないがしろにされていた姝子内親王ですが、澄憲には(その身分もあるでしょうが)非常に大切にされたのではないでしょうか。
そう考えると、彼女は愛する人の子供を産み、満足してその生涯をかけ去っていったのかもしれません。
高松院の子供たち
息子:海恵
御室御弟子、高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之
『玉葉』より
この海恵は、姝子内親王没の4年前、承安二年に生まれたといわれています。父と同じく僧侶となりましたが、承元元年、母と同じく36歳で亡くなりました。
娘?:八条院高倉
曇れかしながむるからにかなしきは月におぼゆる人の面影
『新古今和歌集』より
彼女を産むことと引き換えに、姝子内親王は亡くなったのでは?という説があります。
父は澄憲、母は表向きは不詳です。姝子内親王の同母姉、八条院に仕えました。
彼女は歌人として名をはせました。そんな彼女の残された歌は悲恋が多いような……
母同様、秘密の恋人を持つこともあったのかもしれませんね。
うき世をば出づる日ごとにいとへどもいつかは月の入るかたを見む
『新古今和歌集』より
長い間女房生活を送った後、この娘は出家をし、晩年は奈良の法華寺の尼僧となりました。
高松院に比べると、この娘は老女になるまで長生きしました。
美福門院の孫は、非公式ながらにこの2人しかいません。
とはいえど、祖母のような波乱に満ちた一生ではなく、静かに生涯を送ったようです。
奇しくも、母の高松院のように。
次の女院は、そんな高松院の義理の姉だった人です。美福門院の実家出身のこのお后は、どんな方だったのでしょうか。
それについては、また次回に。
新古今和歌集―ビギナーズ・クラシックス (角川ソフィア文庫 88 ビギナーズ・クラシックス)
参考文献
『国立歴史民俗博物館研究報告 第 188 集』より 『高松院と澄憲 表白の検討を中心に』 筒井早苗 2015
『外法と愛法の中世』 砂子屋書房 1993 田中貴子
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