本能寺の変で敗れた明智光秀、彼の子孫はこの世にどれほどいるのでしょうか。
調べてみました。
明智光秀の子供
安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。
この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。
明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。
『イエズス会日本年報(1582年追加)』より
『明智軍記』によると
長女:荒木村次室→明智光春室
次女:明智光忠室
三女:細川忠興室(たま、細川ガラシャ)
四女:津田信澄室
長男:光慶
次男:光泰(十次郎)
三男:乙寿丸
の三男四女。
筒井家との関係もあるようなので、筒井家に嫁いだ娘がほかにいたかも?
諸説あるようで、どうにもわかりません。
一般的に光秀の妻は妻木熙子のみ、といわれていますが、そこに関しても、
・前室がいた
・側室がいる
などと入り混じっています。
さて、これほど多くいる明智光秀の子供で、子孫を残せたのは誰か?というとかなり限られます。
まず長女。彼女は山﨑の合戦後、坂本城の落城時に夫ともども亡くなりました。(夫に刺し殺されたといいます。)子供がいたとしても、おそらくともに亡くなっているでしょう。
次女。夫の光忠は、光春と同じく坂本城で亡くなっています。彼女のほうは不明ですが……運命を同じくした可能性も少なくないでしょう。
戦国時代、織田信長の妹・お市の方は浅井氏滅亡時実家に戻りましたが、それは彼女に帰る家(織田家)があったからです。帰る家を持たない彼女は、長女のように、夫ともどもその命を終えたのではないでしょうか。
三女。細川忠興室。彼女は細川家によって守られて、生き延び、子供も5人産みました。
四女。信長の甥の津田信澄の妻です。夫の信澄は本能寺の変の際に京都にいたため、光秀に与したと思われてどさくさで討ち取られてしまいます。
が、彼女の子、織田昌澄・津田元信は殺されることなく、江戸時代まで生き延びました。
そして男子三人。
光秀の妻(光秀正室妻木氏はこのころには亡くなっていたともいわれていますが……光秀の側室?)と子は、坂本城落城の際にことごとく死んだ、と言われています。
女子はともかく、男子ならなおさら、生かしてはおけなかったのではないでしょうか。
光慶は生き残って僧侶になったともいわれていますが、詳しいことはわかりません。
明智光秀の孫
まずは四女の二人の男子から。長男の織田昌澄・次男の津田元信は二人とも豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦いました。大阪城落城後に投降し、家康に許されます。
長男の昌澄のほうの子孫は、江戸幕府の旗本として残りました。次男のほうはよくわかりません。
大名家として確実に残っているのは、ガラシャの5人の子の系統でしょうか?
『熊本藩世系』によると、
長男・忠隆
次男・興秋
長女・於長(おちょう)
三男・忠利
三女・多羅
の5人の子供がいます。
長男忠隆は廃嫡されたため、大名にはなれず、京都で隠棲生活を送りました。
前妻との間の子供は、西園寺家などの公家に嫁ぎ、後妻との間の子供は熊本藩家老の家柄となりました。
次男興秋は、父によって徳川家への人質とされましたが脱走、その後大阪の陣に豊臣方として参加したため、父の怒りを買い切腹に追い込まれました。
娘が一人いて、熊本藩家臣の南条元信に嫁いでいます。が、跡取りには恵まれなかったのか、興秋の甥で自身の従弟(弟忠利の子)の元知が南条家の跡取りとなりました。
ちなみに元知室の父・米田是長は、興秋に同行して大阪城に入っていますが、彼は細川家への復帰を許されています。興秋は父忠興との折り合いが悪かったんでしょうか……。
長女於長は豊臣秀次家臣であった前野景定に嫁ぎましたが、秀次事件に巻き込まれて、夫は切腹しました。彼女は辛くも一命をとりとめたのち、尼になったそうです。
三男忠利は熊本藩初代藩主です。ただ彼の系統は7代藩主までで、8代藩主以降は、ガラシャ没後に忠興と側室の間に生まれた四男の家系に移っています。
三女多羅は臼杵藩主稲葉一通の正室となります。父と同じく臼杵藩主となる稲葉信通を生みました。(なお信通は2人の妻を迎えていますが、彼の妻は信長の子孫だったりします。)
明智光秀の子孫には天皇家も
ガラシャの長男、忠隆の娘で、西園寺実晴の室となった徳は、孝明天皇の生母となった正親町雅子の7代前の先祖です。
また、三女・多羅も、息子信通を通じて、仁孝天皇(孝明天皇父)の8代前の先祖です。
明智光秀の血は天皇家にもつながっているんですね。
さて、確実にたどれる子孫については、このあたりで。
ほかの子孫はどこに?
光秀の子供はおそらく、ガラシャと四女(津田信澄室)以外は、坂本城で亡くなったのでは、と思います。
ただ、そこから逃れ出た子供もいるかも、と思うこともあります。
土佐に下った子孫がいるかも、と個人的には思います。
土佐の戦国大名・長宗我部元親の室は明智光秀家臣・斎藤利三の異父妹(義理妹とも)でした。また利三の姪も、長宗我部信親(元親の嫡男)に嫁いでいます。
斎藤利三の娘で、のちに徳川家光の乳母となる、春日局も、父の縁で、一時期土佐に下っていたといわれています。
残党狩りを免れた光秀の家族が、それに紛れて土佐に下っていてもおかしくないでしょう。
ちなみに坂本龍馬は家紋が桔梗紋であることから、明智氏子孫という説がありますが、どうも先祖が苗字と家紋をかえたようです。
ということは関係ないようで…… 残念!
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