上西門院 統子 本名恂子大治四五改之 二条准母鳥羽第二女 母大納言公実卿女待賢門院 大治元八十七為内親 年一 就別当権中納言実行 同二四六准三宮二 同日為賀茂斎院 同三五七 着袴三 天承(長承?)二六二十九退下 依病也 年七 保元二八十四入内年三十二 同三二三為皇后宮 准母義也年三十三 同四二十三 戊戌 院号三十四 永暦元二十七 為尼 真如理三十五 文治五七二十御事 六十四
『女院小伝』より
つぎのひめ宮は、又さきの斎院とて、詢子の内親王と申しし、のちには統子とあらためさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、大治元年七月廿三日
『今鏡』より
にむまれさせたまひて、八月に親王の宣旨かぶり給ひて、長承元年六月卅日、いつきいでさせ給ひて保元三年二月、皇后宮にたゝせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永暦二年二月十七日、御ぐしおろさせ給ふときこえき。きさきにたゝせ給ふときこえしは、みかどの御はゝに、なぞらへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ。六条院のれいにや侍らん。
上西門院の略歴
上西門院統子内親王は、幼くして賀茂斎院(上賀茂神社に奉仕した皇族の巫女姫)に選ばれましたが、7歳の時点で病気で退下しました。
ちなみに彼女の同母姉・禧子内親王は、この翌年に幼くして亡くなっていますので、娘二人が同時期に病気になっていたかもしれませんね。母待賢門院は気が気でなかったでしょう。
退下後、いつの間にか病気が治った統子内親王は、弟の後白河天皇即位後にその准母になります。
(『女院小伝』では、「二条准母」とありますが、保元三年八月までは後白河天皇が天皇なので、おそらく後白河天皇の准母・皇后でしょう。)
同母弟の准母立后、というと郁芳門院が浮かびますね。

そして准母として立后、院号宣下、その翌年には出家……平安女性のライフイベントを30代で終えた彼女はその後30余年を生きて、64歳で亡くなります。
空白の30年ですが、別に何もしていなかったわけではないのは続きに。
ちなみに
この宮たち、親の御子におはしませば、ことはりとは申しながら、なべてならぬ御姿なむおはしまする。
『今鏡』
誰もと申しながら、院の御姉におはしますなる女院こそ、すぐれておはします
先奉見前斎院、端正美麗非所眼及
『長秋記』
とてつもない美人だったようです。
身の回りに女院がいっぱい
母から二代続けての女院、となったのはこの人が最初ではないでしょうか。
(この後は連発されますが……)
そしてこの人の身近にはまあ、女院が多い。
母……待賢門院
父の妻……高陽院、美福門院
異母妹……八条院(この方についてはまた後日)
異母妹で養女……高松院(この方についてはまた後日)
兄嫁……皇嘉門院
弟嫁……九条院(この方についてはまた後日)
弟嫁にしてもと自分の女房!……建春門院(この方についてはまた後日)
姪……殷富門院、宣揚門院(この方たちについてはまた後日)
ざっと書いたところでこんなところ。
女院は基本天皇家とかかわりのある人がなるものなので、しょうがないのかもしれないのですが。
上東門院、陽明門院の頃はいても同時代にもう一人いるかいないかだったことを考えると、本当に増えたなあ、と思います。※ちなみに郁芳門院は大伯母(祖父堀河天皇の姉)だったりします。
もしかしたら子供好き……だったのかも
上西門院本人のパーソナリティーは資料等からはイマイチ見えてこないのですが、
さぬきの院の皇子はそれも仁和寺のみやにおはしますなる、法印にならせ給へるとぞ、きこえさせたまふ。それも真言よくならはせ給ひて、つとめおこなはせ給へりとぞ、上西門院御子にし申させ給へるとぞ。
『今鏡』より
院の姫宮東宮の女御にまゐり給ふ。高松の院と申す御事也。前の斎院とていまの上西門院のおはしましゝを、御母にしたてまつらせ給ふとし。
『今鏡』より
などと親族の子供を養子にとったりしています。
1人目は兄崇徳天皇の庶子で仁和寺で出家した宮法印・覚恵でしょうか。2人目は女院にもなった異母妹、そして甥(二条天皇)の嫁の高松院です。
至于二条院姫宮者已無憚、当時上西門院為御猶子、
『兵範記』 より
他にも、僐子内親王(甥・二条天皇の皇女)も、猶子にしていたとか。
自分で育てていたわけではないでしょうけど、子供が好きだったのか?
それとも後白河の指示だったり、何らかの政治的意図があったりもしたのでしょうか。
彼女の異母妹八条院にも何人も養子がいたので、お互い対抗している部分もあったのかもしれませんね。
平家ともかかわりが深かった?
後白河天皇と言えば、平家とのかかわりが注目されるところであります。そして上西門院の身近にも平家関係者が多くいました。
その中で最も注目されるべきは、上西門院の女房・小弁局。
彼女は後に後白河天皇の寵愛を受け、高倉天皇となる皇子を産み、そしてついには女院にまでなりました。かつての主人と同じ立場まで上り詰めたのですね。
そして彼女は平清盛の義妹(異母姉・時子の夫が清盛)でもあります。
他には平通盛の妻で夫の後を追った小宰相も、彼女の女房でありました。
いや、源氏ともかかわりが深かった?
鎌倉幕府の創始者源頼朝の母、由良御前(熱田神宮大宮司の娘)は、上西門院の女房だったのでは?と言われています。

というのも、源頼朝は平治の乱で伊豆に流される前に、上西門院蔵人(上西門院の院庁の役人)になっているからです。
実際のところどうだったのかはわかりませんが、上西門院は、伊豆に流される前、まだ少年であった源頼朝の姿を見ることも何度かあったのかもしれません。
上西門院自身はどうにも動きの見えづらい人でありますが、彼女の周囲は後白河院政期のスーパースターぞろいです。平清盛、源頼朝、そして「日本一乃大天狗」こと後白河天皇。
それらの人々の動きを、楽しく見守っていたのかもしれません。何となくですが、きっと退屈しない生涯だったのではないかと思います。
次の女院は、そんな上西門院の異母妹にあたる女性です。もしかしたら女帝になったかもしれない、そんな彼女については、また別の機会に。
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