皇嘉門院 藤聖子 崇徳后 近衛准母 法性寺関白第一女 母大納言宗通卿女従三位藤宗子 大治三十一九 叙従三位 八 同四正十一六為女御 九 同五二二十一 為中宮 永治元十二二十七為皇太后 天皇即位日年 二十一 久安六二二十七甲戌 院号二十九 保元元十十一●尼 清浄恵 長寛元十二二十六為尼 四十二 養和元十二五御事 年六十
『女院小伝』より
※●……判読できず
一度は聞いたことがないでしょうか?
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
百人一首第77番、崇徳天皇の和歌です。
岩によって水の流れは割かれるが、最後はまた一つの流れになる。
たとえ今別れても、また再び会おう。
題知らず、であるため実際の体験ではなかったのかもしれませんが、崇徳天皇のこの後の運命を思えば、どこか怖さすら感じる和歌です。
崇徳天皇は最後、讃岐に配流され都の地を踏むことは二度とありませんでした。そして都に残った人々と会うことは、ついぞなかったのです。帰京を熱望したにもかかわらず。
そんな 彼が都で別れた人々の中に、この女性がいます。
藤原聖子、皇嘉門院の院号を持つ、崇徳天皇の正妃です。
彼女本人よりもむしろ回りが慌ただしい、そんな一生を送った女性ですが、どのような女性なのでしょうか。
摂関家の嫡女
藤原聖子は、関白・摂政である藤原忠通と、その正妻宗子の間の子供として生まれました。
父忠通は高陽院の同母弟で、異母弟頼長との政争に勝つなど政治力のある、また文化人としても優れた人物でした。(百人一首の76番の和歌の作者です。)
母の宗子は、白河院近臣の権大納言藤原宗通の長女で、美福門院の従姉にあたる女性です。
父の忠通はほかの妻との間には何人か子供がいましたが、正妻宗子との間には聖子しか子供がおらず(本当は聖子の弟が生まれていましたが幼いうちに亡くなってしまいました)、
彼女を嫡女として非常に大事にしていました。
そして聖子はなんと!9歳で結婚します。伯母高陽院が晩婚だったのに比べ早婚ですね。
相手は時の天皇崇徳天皇、聖子の3歳上です。
年も近いから、良い夫婦になれそうですね。
聖子は翌年10歳で中宮になります。
父の忠通はおそらくすでに気も早く、次の天皇を聖子が生むことを期待したでしょう。
しかし―聖子が妊娠することはありませんでした。
聖子と近衛天皇
崇徳天皇は女房の兵衛佐局との間に、第一皇子重仁親王を儲けます。
このころ、聖子は養子を持ちました。
鳥羽天皇と、その寵姫である藤原得子との間にうまれた皇子です。
彼女はこの子供を育てるのに熱中し、一緒に生活を送るようになりました。
(とはいえど崇徳天皇ともたびたび同居や行き来があったようなので、仲たがいしていたわけでもないようです。)
1141年、聖子の育てた皇子は即位します、近衛天皇と呼ばれることになる天皇です。
この天皇の在位中に彼女は院号宣下を受け「皇嘉門院」となります。
聖子は近衛天皇と同居するなどかなり親しく付き合っていたようです。また近衛天皇の存命中は、崇徳天皇は近衛天皇の父がわりのようなことをしていたりもしています。このころは歪ながらも、まずまず穏やかに暮らしていたのでしょう。
しかし彼女の育てた近衛天皇は早逝してしまいます。
保元の乱
その後起こった保元の乱で父忠通と崇徳天皇は敵対します。
そして敗北した崇徳天皇は讃岐へ流刑となります。聖子と崇徳天皇、夫婦でありながら、二人はその後、会うことはありませんでした。
敗者の妻である聖子ですが、勝者の娘であったため、彼女は流刑含め、なんの咎も受けませんでした。
彼女がこの過酷な状況に何を思ったのか、それはわかりませんが、この年彼女は出家しました。
保元の乱後~実家で頑張ってます~
保元の乱後の彼女ですが、異母弟の九条兼実やその息子良通を養子(猶子)にとっていたようで、親しく付き合っていたようです。
彼女の女房の一人別当(百人一首88番の和歌の作者「皇嘉門院別当」)がたびたび九条兼実邸での歌合に参加していたことからも、それがうかがえます。
また自身の所領の経営にかかわったり、父忠通没後の仏事を取り仕切ったり、天皇家の一員としてよりは摂関家の一員としての活動を盛んにしていたようです。
夫となった人を振り回した天皇家にはかなりコリゴリだったのかも?
さて、彼女の次に女院となったのは、夫の崇徳天皇の妹で、後白河天皇の姉に当たる女性です。
つまり待賢門院の娘ですね。親子二代で女院となったこの女性はどんな人だったのでしょう。
それについてはまた次の機会に。
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