今までの記事の中で「鳥羽天皇の寵姫」としてのみ登場してきた彼女。寵姫の名前にたがわず美しく、そして鳥羽院政期を翻弄し、そして、もしかしなくてもその後約700年続く、武家の時代の幕開けに一役買った、日本史になくてはならない存在の女性です。
政治的なものだけでなく、民間伝承部分でも玉藻の前伝説のモデルと言われていたり、なかなかセンセーショナルな一面を持つ彼女。
どんな女性だったんでしょうか。
美福門院 藤得子 鳥羽后 近衛母 中納言長実卿女 母左大臣俊房公女
『女院小伝』より
保延二四十九叙従三位 二十 同五五二十八 奉誕近衛院 同八二十八為女御 東宮入内日年二十三 同七三七准三宮 永治元十二二十七為皇后宮 天皇即位日年二十五 久安五八三 壬子 院号三十三 保元元六十二 為尼 真性●(分かりませんでした) 異本莫 真浄空 四十 永暦元十一二十三御事 四十四
美福門院の子供時代
後に美福門院と呼ばれることになる藤原得子、彼女は藤原長実の娘として生まれました。
母は左大臣源俊房の娘、源方子です。源方子は村上源氏出身であり、摂関家に次ぐ家柄の出です。
ただ祖父の源俊房自身は、得子の生まれる前に失脚してしまったため、得子は「左大臣の孫娘」ともてはやされることはなかったでしょう。
一方父の家系は代々受領(地方の国司などを務める家柄。中級貴族。)の家柄です。
父本人は白河天皇の側近であったため、「無才の人(『中右記』より)」とののしられつつも晩年ぎりぎり中納言にまで上り詰めました。
父母が中年になってから生まれた待望の一人娘であったようで(父42歳、母51歳!母の年齢合ってるんだろうか……調べた限りでは治暦2年【1066年】生まれなのだけれども)、
たぐひなくかしづきゝこえて、たゞ人にはえゆるさじ
『今鏡』より
と大事に大事に育てられます。「低い身分のやつにはやらん!」ってあたりは少し親ばかっぽいですね。
これで彼女が普通の女の子であったならほほえましいだけの話で終わったでしょうが、得子は美しかったのです。
美福門院と鳥羽天皇
父長実は、彼女が15歳になるかならないかのうちに亡くなってしまいます。
そして亡くなった後、男親がいない家に、ある人がこっそり通い始めます。
鳥羽天皇でした。(このころは、もう退位していましたが。)
足枷になっていた白河天皇もおらず、解き放たれた鳥羽天皇は、美濃局や三条局といった愛人を持ち始めます。
が、得子には心底まいっていたようで、
しのびてまゐり給へる御かたおはしまして、やゝあさまつりごともおこたらせ給ふさまにて、夜がれさせ給ふ事なかるべし。
『今鏡』より
というありさまでした。楊貴妃か、はたまた桐壺更衣かといったありさまですね。
そして得子は寵愛を受け、娘を二人産んだあとに、男の子を一人産みました。(この後にもう一人女の子を生んでいます。)
男子出産の祈祷までさせていた鳥羽天皇は狂喜乱舞!得子も鼻が高かったことでしょう。
美福門院と崇徳天皇 策謀と確執
そして、ここから得子は頑張ります。
まずは生まれた息子を、義息子(鳥羽天皇と待賢門院の長男)の崇徳天皇の妃、藤原聖子の養子にします。
(崇徳天皇と藤原聖子の間に子供はいませんでした。)
得子は受領階級出身で、后妃としての身分を一切持っていませんでしたが、この藤原聖子は摂関家の生まれで、崇徳天皇の皇后です。
高貴な身分の女性の養子とすることで、息子の地位の向上を図ったのです。
そして崇徳天皇をそそのかします。
この子を養子として、譲位すれば、院政を行うことができますよ、と。
崇徳天皇はそれにのって、得子の息子(自身の養子)に譲位します。
そしてそのあと詔勅をみて驚きました、そこには「皇太子(天皇の子供)」ではなく「皇太弟(天皇の弟)」とあるのですから。
結局崇徳天皇は院政を行うこともできませんでした。
騙し打ち同然で息子を即位させた得子、もはやわが世の春です。
それまで日陰の身であった得子は、まず「女御」になり、そして「皇后」までのし上がりました。
さらに亡き父に太政大臣の地位を贈ったり、母を正一位に叙したりもしています。
また目の上の瘤であった待賢門院を出家に追いやり、女院号(美福門院)まで与えられ、もう怖いものはありません。
しかし彼女は待賢門院が白河天皇の母方の実家の出身という家柄だったのに比べ、受領階級出身の出。ゆえに当時の摂関家の次男である藤原頼長にこう酷評されています。
疑若不欲拜皇后歟、雖爲母后、已爲諸大夫女
『台記』より
天皇の母といえど、皇后でなかったら諸大夫の女に拝礼するものか。
これは日記に書かれていたことですので、おそらく美福門院自体が見ることはなかったでしょう。
しかし彼女はその空気をしっかりと読み取っていました。
彼女自身、鳥羽天皇の正妃であった待賢門院を叩き落としました。
待賢門院よりも生まれの劣っている彼女自らが、別の人間に叩き落されないとは言えません。
そして順風満帆だった、美福門院のシンデレラロードに暗雲が立ち込めます。
天皇となった美福門院の一人息子、近衛天皇は病弱でした。
美福門院は自身の一族から后を立てたりしましたが、結局子供が生まれないままに近衛天皇は亡くなってしまいます。
打ちのめされる間もなく、美福門院は決断を迫られました。
美福門院には養子がいました。
1人目は、崇徳天皇と愛人との間に生まれた皇子、重仁親王。
2人目は、待賢門院と鳥羽天皇の間の4人目の皇子、雅仁親王と正室との間に生まれた、守仁王。
守仁王は仁和寺で出家することが決まっていましたので、重仁親王が選ばれる、誰もがそう思いました。
しかし美福門院は考えました。
息子を天皇にするために実権を奪った崇徳天皇。その人の息子が天皇になったら、父である崇徳天皇が院政を行うだろう。
そうなった時、自分はどうなる。
選ばれたのは守仁王でした。
まず守仁王の父、雅仁親王を天皇につけました。この人が「後白河天皇」となります。
そして守仁王に、自身の末娘を嫁がせ、美福門院は権力を盤石なものとします。
そしてこのころ、夫の鳥羽天皇が亡くなります。
重石が取れた、その後―
保元の乱が起こりました。
後白河天皇と崇徳天皇、父母を同じくする弟と兄の戦いとなります。
美福門院は後白河天皇をバックアップするべく暗躍、後白河天皇が勝利をおさめ、崇徳天皇は讃岐に配流されました。(この時崇徳天皇についた藤原頼長が殺されたりしています。「諸大夫の女」にしてやられるとは、彼も日記を書いたときには思ってもいなかったでしょう。)
そしてこの乱のさなかに彼女によって、平清盛が引き立てられました。
この乱後、後白河天皇の乳母の夫、信西と話し合い、守仁王を即位させることに成功しました。
息子を天皇にし、娘を中宮にした女性は彼女のあと、南北朝期まで現れませんでした。
そのことからも彼女の権力、政治力の凄まじさが分かるでしょう。
美福門院の墓
このあと平治の乱が起こったりもしますが、その乱も乗り切ったあと、彼女は44歳で生涯を終えます。
その埋葬の際に、当時女人禁制であった高野山に葬ってほしいと遺言を残したがためにいろいろ揉めたりもしましたが、無事望み通り高野山に葬られました。
娘3人のうち、早世した一人(高陽院の養女であった娘)を除いた2人は女院、息子は天皇、と栄華を極めたような一族ですが、不思議なことに美福門院の子供たちは(公的には)子孫を残しませんでした。
この稀代の女傑の血を引く子孫が天皇になっていたら、どのような歴史が繰り広げられたのでしょうか。
おそらく平清盛はあそこまで出世しなかったでしょうし(清盛出世には保元・平治の乱がそれなりにかかわっているので)、後白河天皇という稀代の怪物(なにせ『大天狗』呼ばわりされている)も生まれなかったでしょうし、ひいては源頼朝が幕府を開くこともなかったでしょう。
そうなった場合、どのようなことになっていたのか。
いろいろ想像しがいがあるなあ、と思ったりします。
さて、次の女院は、この美福門院に散々してやられた崇徳天皇の妃、
一瞬名前が出ていますね、藤原聖子です。
美福門院が「諸大夫の女」であるのに対して、彼女は高陽院同様、摂関家の生まれ。そんな彼女の生涯については、また次の機会に。
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