優雅なる流され人生 高陽院 藤原泰子 その生涯について

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

高陽院 藤泰子 本名勲子 依衆難改之 鳥羽后 知足院関白一女
母右大臣顕房公女従一位源師子 長承二六十九入上皇宮 三十九 同三三二
従四位下准三宮 四十 于時女勲子 十九日為皇后宮 于時泰子 保延五七二十八丙午院号 四十九
同七五五為尼 清浄理主 四十七  久寿二十二十六御事 年六十一

『女院小伝』より

天皇家にも藤原氏にも振り回された一生。

そう言っても差し支えのないような、周りの思惑にゆだねられ続けるような一生を送った女性だったと思います。
とはいえど、流されるままのような中にも、どこか確固たる意志を感じるような、そんなところもあります。

高陽院藤原泰子(もともとは勲子という名前でした。このブログでは泰子のままでいきます。)
彼女は摂関家当主・藤原忠実の娘として生まれました。
母は父の正室で右大臣源顕房の娘で、白河天皇の中宮賢子の妹、師子です。

母 源師子

まず彼女の生まれ自体もどことなく影があります。
彼女の母は正室ですが、彼女が生まれた時は父の側室の扱いでした。父には別に正室がいたのです。
そのため彼女は、後々摂関家の嫡女として華やかに生きていくのに比して、生まれた時の記録がほとんど残っていません。

別に正室がいるとしても、右大臣の娘で中宮の妹である女性がなぜなかなか正室になれなかったのか?

実は母師子は父忠実の妻になる前に、とある人の愛人として子供を産んでいました。
母は誰の愛人だったのか?

白河天皇の愛人でした。

熱愛した中宮賢子の面影を見たのでしょうか、師子は白河天皇の愛人となり、後に仁和寺御室となる親王を産みました。

しかし、彼女を見初めたのは白河天皇だけではなく、忠実もまた彼女にのぼせあがったのです。
そして中宮賢子の養母である源麗子の働きかけもあり、忠実は師子を自身の妻にすることができました。
そして師子は泰子と、泰子の弟で後に摂政となる忠通の二人の子を生みました。
元の正室には子供もいなかったため、正室と離別後に師子はようやく正室となったのです。

なかなか決まらない結婚

そんな泰子でしたが、母が正室となったのに伴い、摂関家嫡女として人々の注目を集めていきます。
摂関家の娘と釣り合う結婚相手……それは、この国の天皇以外にいません。
鳥羽天皇は泰子の8歳下でしたが、そのくらいの歳の差の結婚はざらにありました。

ですので、年頃になった泰子も、いずれ天皇の中宮となることを確信していたでしょう。

しかしそうはいきませんでした。

鳥羽天皇の中宮になったのは藤原璋子、弟の妻になるかもしれなかった、白河天皇の掌中の珠でした。

白河天皇の思惑によって、彼女は唯一自らにふさわしい結婚相手の妻となることができなくなったのです。

父忠実は、それでも泰子を入内させられないか……と考え、行動します。
一条天皇以来、一人の天皇に皇后中宮の二后が並立することはままあることでしたから。
しかし、その行動は白河天皇からすれば、璋子を害するものに思えたのでしょう。
父忠実は関白を辞任させられてしまいます。同時に、泰子の結婚も立ち消えました。

ここで彼女の高貴すぎる生まれが足かせになりました。
彼女に釣り合う男性など天皇以外にいません。
そして泰子は結婚をしない……というか、できないまま、年を重ねていきます。

アラフォーでの大逆転?!

泰子の結婚を完膚なきまでにひき潰した白河天皇ですが、年齢には勝てず、とうとう亡くなってしまいます。
白河天皇に政治を握られていた鳥羽天皇は、脱白河を目指し、少しずつ行動していきます。
また私生活においても、鳥羽天皇は寵姫をもつようになります。
この寵姫が妊娠したのです。
鳥羽天皇は考えます。愛しい人の後ろ盾になりうる人は誰かいるのか?

崇徳天皇の母たる待賢門院・中宮璋子に対抗しうる人物―

泰子しかいませんでした。

泰子はすでに上皇となっていた鳥羽天皇の「皇后」になります。
このとき39歳であった彼女は、翌年鳥羽天皇の寵姫が生んだ娘を養女にします。(可愛がったようですが、この娘は早世しました。)

あね宮をば、宇治のきさき、御子おはしまさぬにあはせて、おほきおとゞの御心とゞむとにや。このみやにむかへ申させたまひて、やしなひ申させ給ふ。

…(中略)… かやう院のやしなひ申させ給ひしは、叡子内親王ときこえ給ひしは、うせさせ給ひにき。

『今鏡』より

そしてそれから1年ばかりで女院号を手に入れ「高陽院」となります。

苦節20年、彼女はようやく結婚し、そしてライバル待賢門院を追い落とすことに成功します。

無事結婚した泰子ですが、当時39歳だったこともあったのでしょうか、 鳥羽天皇とともにすごすこともほとんどなかったようです。
とはいえど鳥羽天皇や、ほかの妃や、実家の摂関家の人間たちから、非常に尊敬を受けていたようです。
泰子は同母弟忠通と異母弟頼長の争いを調停したりと、その権力をいかんなく発揮しています。

61歳で泰子は亡くなりますが、その翌年保元の乱が起こります。
摂関家は権力を失い、武士が台頭し始めます。

そう考えると、泰子は摂関家の栄華の、最後に咲いた花だったのかもしれません。

さて、次の女院は、今までの待賢門院・高陽院の記事の中で「鳥羽天皇の寵姫」と表記してきた方です。今までの二人が、いずれも天皇家につながる名家の生まれであるのに比べるとやや身分の劣るこの女性は、身一つで平安末期の混乱を乗り切りましたが……。さて、詳しい話はまた次の機会に。

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