ザ・プリンセス 二条院 章子内親王 その生涯について

中世史(日本史)

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二条院 章子 後冷泉后 後一条第一皇女 母法成寺関白第三女 藤壺中宮藤威子 万寿四二十一 為内親王年二 長元三十一二十 一品准三宮五 長暦元十二十三入太子宮十二 寛徳二正十六為女御 受禅日年二十 永承元七十為中宮二十一 治暦四四十六為皇太后 四十三今年四月九後冷泉有御事 同五三二十三為尼 四十四 延久元七三為太皇太后 承保元六十六壬午 院号四十九 長治二九十七御事 年八十

『女院小伝』より

さて、二条院章子内親王……陽明門院と同じく内親王、つまり天皇の娘です。
そして彼女は、今までの女院たちとは違い、自分の子供がいません。

そんな彼女がなぜ女院になれたのか?

そこにはあるカラクリがあったりするのですが……

ぼちぼち語っていきましょう。

陽明門院は摂関家とあまり関係はよろしくなかったですが、章子内親王のほうはわりとうまくやっていました。

章子内親王の父は一条天皇と上東門院彰子との間に生まれた、後一条天皇です。母は父の唯一の后であった、藤原道長の三女、威子でした。
(叔母と甥の間に生まれた子供だったのです。)
父と母の間に生まれたのは、ほかには妹の馨子内親王(後三条天皇の中宮となります)のみでした。
成長した彼女は従兄の後冷泉天皇に嫁ぎます、が、子供は生まれませんでした。
そして夫の後冷泉天皇が即位後に……

このつぎのみかどは、後冷泉院と申しき。…(中略)…
寛徳二年正月十六日、くらゐにつかせたまふ。…(中略)…七月十日中宮立たせたまひき。東宮の御時より、みやす所にておはしましゝ、後一条院のひめ宮なり。
…(中略)…十月に関白殿の御おとうとの右のおとゞ女御たてまつりたまふ。
…(中略)…五年しはす関白殿の御むすめ、女御に参りたまふ。

『今鏡』より

関白頼通の弟で、のちに関白になる教通の娘(藤原歓子)、頼通の娘(藤原寛子)らが相次いで夫のもとに入内しましたが、表立って彼女は何もしませんでした。
同じ后でも教通娘の歓子は、自身の死産の後に、頼通娘の入内を知り、自分の身の置き場がないと嘆いて、宮中を出るなどしていました。
しかし、彼女はあまり気にかけていなかったようです。陽明門院の事例もあったので、あまり摂関家との間に波風を立てたくなかったのかもしれません。

そして夫も亡くなった後、彼女は穏やかな日々を送っていました……

しかし彼女は天皇の皇后であり、後冷泉天皇亡き後「太皇太后」の位を持っていました。
ここで一人、このことに困った人がいます。

後の院政の創始者、白河天皇です。

自らの女御である藤原賢子を中宮にしたかったのですが、当時、

太皇太后→章子内親王
皇太后→藤原寛子(藤原頼通の娘、後冷泉天皇后)
皇后→藤原歓子(藤原教通の娘、後冷泉天皇后)
中宮→馨子内親王(章子内親王の妹、後三条天皇后)

といったありさまで、后妃の地位が一切空いていなかったのです。
そこで太皇太后である章子内親王を別枠の女院に任命して、残る3人の位を一段階ずつあげる……
そして無理やり中宮の位を空けたのでした。

そんなこんなで「二条院」になってしまった章子内親王ですが、経緯が経緯だけに、今までの女院たちと違って政治権力を発揮する……なんてこともなく。
女院号を贈られた後も、穏やかに生涯を終えました。

次の女院は今までちらほら名前の出ていた白河天皇の娘です。
二条院は「自身の子供がいない」初めての女院でしたが、彼女もまた今までとは違ったあり様の「女院」です。
この話はまた次の機会で。

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