ハトシェプスト女王の生涯
トトメス1世王女として生まれ、異母兄トトメス2世と結婚しました。
トトメス2世の13年の治世の中では、彼女は「アメン神の妻」などの称号を持つ、エジプトの歴史の中に多くいる王妃の一人にすぎませんでした。
しかし、トトメス2世は早逝します。跡を継いだのは彼女の継子のトトメス3世でしたが、非常に幼かったため、ハトシェプストが摂政を務めるようになりました。
その中でじわじわ力をつけていったのでしょう。彼女の称号はじわじわと増えていき、「二つの国の女主人」などの王の称号に近いものを名乗り始めます。
そしてついにトトメス3世の治世7年目、彼女は即位名マアトカーラー(意味は「真実はラーの魂」)を名乗り、王となりました。
とはいえど、彼女はトトメス3世を害したわけでもなく、トトメス3世を共同統治者にしていました。
このことから彼女が野心をもって即位したわけではなく、あくまでも「つなぎ」だったのでは?とも言われています。
とはいえどハトシェプストは自身の即位を正当化するためか、ハトシェプスト女王葬祭殿で自身を「アメン神の子」として描いたりもしています。
また彼女は王妃であったときは女性の姿で描かれましたが、王となって以後は男女混合の服装であったり、男性の姿として壁画等には描かれています。
このあたりに彼女が女王であることに対して何らかのジレンマを抱いていたようにも思われます。
女王の治世下はおおむね平和であり、プント(紅海にあったとも、詳細不明)などとの交易を行うなどしました。
彼女は治世22年第6の月の10日に死去し、その後トトメス3世は単独統治に乗り出します。
トトメス3世はその治世の終わりに、ハトシェプスト女王の痕跡を消そうとしていますが、それは全く完璧なものでなかったため、後世、研究の中で彼女の存在が浮き彫りになったのです。
ハトシェプスト=Hatshepsut 名前の意味は?
名前の意味は「 最も高貴なる女性 」だとか。王女にして王妃にして女王たる彼女にふさわしい名前ですね。
ハトシェプスト女王の家系図
父=トトメス1世
アメンホテプ1世の息子?という説あり
ただし母セニセネブは「王の母」の称号のみを持つことから、アメンホテプ1世の息子ではない可能性高し。アメンホテプ1世配下の有力武将だったか?
母=イアフメス
「王の娘」の称号は持たないが、「王の姉妹」の称号を持つことからトトメス1世の姉妹か?
トトメス1世即位後の結婚と考えられることから、アメンホテプ1世の妹でイアフメス王王女との説もあり
同母妹=ネフェルビーティー(アクベトネフェル)
ディール・アル=バハリのハトシェプスト葬祭殿壁画に登場
ただその後記録はないため早世したか?
父の先妻?=ムトネフェルト
「王の娘」の称号を持つことからアメンホテプ1世もしくはイアフメス王の王女との説あり
夫・異母兄=トトメス2世
トトメス1世とムトネフェルトの間の子
娘=ネフェルウラー
詳細は後述
娘?=メリトラー・ハトシェプスト
トトメス3世の後妻でアメンホテプ2世の母
ハトシェプストという名前から、ハトシェプスト女王とトトメス2世の間に生まれた娘でネフェルウラーの妹という説あり
ただそれ以外の根拠はなく、神官と王家の乳母フイとの間の娘という説が有力
義息子=トトメス3世
トトメス2世と側室イシスとの間の子
ハトシェプスト女王の娘 ネフェルウラー
ハトシェプスト女王の娘ネフェルウラーは、トトメス3世の王妃だったともいわれていますが、根拠はありません。
父が亡くなったときには幼かったと考えられる彼女ですが、母ハトシェプストが即位した後に、母に代わって、「王妃」の役割を果たすようになりました。
またハトシェプスト女王の側近であったというセンエンムト(センムト)は、ネフェルウラー王女の世話係であったことを足掛かりに出世していったといわれています。
彼女はハトシェプスト女王治世の末期にはその姿を消してしまいます。
記録などから、トトメス3世の治世11年~16年の間に若くして死去したのではないかと考えられています。
ハトシェプスト女王とセンエンムト(センムト)
ハトシェプスト女王の娘ネフェルウラーの家庭教師・世話係でした。
出自はかなり低かったものと考えられています。
ハトシェプスト女王の側近として女王治世下で出世、ハトシェプスト女王葬祭殿の施行の責任者などになります。
ハトシェプスト女王葬祭殿に自身の肖像画を刻んでおり、これは王家の人間以外の人間がまずできるはずもないことでした。
このことから女王に非常に信頼され、気に入られていたのだと思われます。
しかし、ハトシェプスト女王の娘ネフェルウラーが亡くなった後、治世16年以降に突如としてセンムトは記録から姿を消します。
同時期に彼の墓やハトシェプスト女王葬祭殿の肖像画が破壊されていることから、おそらくこの時期に失脚したと考えられます。
ハトシェプスト女王とセンムトの間をつないでいたのはネフェルウラー王女の存在であり、その彼女がいなくなったことで、二人の関係がうまくいかなくなったのでしょうか。
ハトシェプストはモーセの養母か?
ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、
『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年
あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。
そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。
パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。
パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。
その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。
この「パロの娘」がハトシェプストに仮託されることがあります。パロ=ファラオですね。
聖書の列王記中の記述から、ソロモンの即位は前970頃で、出エジプトはその480年前=前1450年頃とすると、多少時代のずれはありますが、ハトシェプストの生きていた時代にかなり近いことがわかります。
とはいえど真相は闇の中、今となってはもはやわかりません。
ただハトシェプスト女王の平和外交、そこに自ら育てた異国の子供の存在が影響していた……などと考えると少し面白いですよね。
ハトシェプスト女王はどんな顔だったのか?
顔についてはよくわかってはいません。「見上げるその人は、何にもまして美しい」などという記録が残っているので、おそらく美人だったのでは……?
ハトシェプスト女王のミイラが発見されましたが、ミイラからは生前の容貌はどうにもわかりません。
ただミイラからわかる範囲では、彼女は50歳前後で亡くなっており、小太りだったと思われるそうです。
碧いホルスの瞳 -男装の女王の物語- 4【電子書籍】[ 犬童 千絵 ]
参考文献
『古代エジプト女王・王妃歴代誌』 創元社 2008
ジョイス ティルディスレイ (著), 吉村 作治 (監修), 月森 左知 (翻訳)
『図説 古代エジプトの女性たち―よみがえる沈黙の世界』 原書房 2007
ザヒ・ハワス (著), 吉村 作治 (翻訳), 西川 厚 (翻訳)
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