一条天皇と皇后・定子の間に生まれた第一皇子・敦康親王。
天皇の正妻腹の第一皇子という立場でありながら、時の権力者・道長の孫である異母弟たちが帝位にのぼったため、彼自身は結局高御座に座ることなく、若くしてその生涯を終えました。
そんな敦康親王ですが、彼には妻と一人娘がいました。
敦康親王の妻、そして敦康親王、ひいては皇后定子の血を唯一後世につないだ彼の娘はいったいどのような人物だったのでしょうか。
気になったので調べてみました。
敦康親王の妻:南院の上(中務卿具平親王の次女)
女子 敦康親王室、
引用:『尊卑分脈』
敦康親王の妻は、村上天皇の孫娘にあたる南院の上でした。
彼女の正確な年齢はわかりません。
ただ、長姉である隆姫(隆子)女王が995頃の生まれ、妹である嫥子女王が1005頃の生まれであることを考えるならば、999年生まれである敦康親王の同年代であることは間違いないでしょう。
彼女の正確な名前も伝わっておらず、一説には「祇子女王」だといいますが、この名前は彼女の姪(あるいは異母妹)である藤原頼通の側室と同じ名前ですから、信ぴょう性は低いようにも思われます。
彼女の父・具平親王は後中書王とも呼ばれ、その学才を評価された人物であり、皇族の重鎮でもありました。
ただ南院の上の結婚前、寛弘六年(1009)には父は亡くなっており、彼女は姉である隆姫女王と義兄・藤原頼通(藤原道長の嫡男でいわずと知れた「宇治殿」ですね)のもとに身を寄せていたようです。
そんな彼女に降ってわいた縁談が、亡き皇后定子所生の第一皇子・敦康親王との話でした。
大将殿、うへ(=隆姫女王)の御をとうとの中の宮に、この宮をむことりたてまつらんとおほし心さしたりけるなり、
引用:『栄花物語』
当時の敦康親王は後ろ盾もなく、すでに異母弟たちに東宮の座を奪われていたとはいえ、若くして皇族として最高位である一品に叙せられるなど、好待遇をうけていました。
この婚姻が成立すれば、後ろ盾のない敦康親王は頼通と義理の兄弟にもなり、道長との関係も築けることとなります。
道長としても強引に我が孫を立太子した手前、排除されたかたちとなった皇子を無下にするつもりもなかったのでしょう。
二人の婚姻は、長和二年(1013)12月10日に行われました。
姉の隆姫はかわいい妹の婚姻に気合が入ったのでしょうか、婚姻時に用意された装束は「甚過差」、つまりひどく華やかなものだったそうです。
参皇大〔太〕后宮、帥宮御方、故中務卿宮女子参、
引用:『御堂関白記』
冷泉院の宮達などのやうに、軽々におはしまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし
引用:『大鏡』
政略的な側面の強い婚姻でしたが、才知に溢れ、また女性に対して軽々しくふるまうこともなかった敦康親王との結婚はそれなりに充実したものではあったのではないでしょうか。
十九日、辛酉、寅時式部卿宮内方有産事、
引用:『御堂関白記』
結婚からおよそ三年ほどたった長和五年(1016)には、二人の間に待望の娘・嫄子が生まれます。
しかし結婚からおよそ5年後、寛仁二年(1018)の12月、敦康親王はいきなり体調を崩し-そのまま亡くなってしまいます。
夫と死に別れた南院の上はこのころまだ10代後半~20代半ばという若さでした。
当時、夫と死別した妻が再婚するのは決して珍しいことではなく、摂関家嫡男の正室の妹という有力な血筋を持つ南院の上も、再婚しようと思えば決して難しくはなかったでしょう。
しかし彼女は再婚することは選ばず、死別した夫に操を立てるべく、出家して俗世と別れることを選びました。
母・南院の上の出家にあたって、娘・嫄子は姉・隆姫が引き取りました。
嫄子はのちに関白家の娘として後朱雀天皇の後宮に入ることとなりますが、若くしてお産で亡くなってしまいます。
南院の上は夫同様に若くして亡くなった娘・嫄子よりも長生きしました。
晩年には仏事にいそしむ傍ら、娘が残した孫娘たちの面倒を見るようなことも、もしかしたらあったのかもしれません。
もっとも、娘には先立たれましたが、姉・隆姫、妹・嫥子(伊勢斎宮、のちに藤原頼通の弟である教通の妻)たちは長生きでしたから、姉妹たちとにぎやかに老後を送った可能性も高そうですね。
敦康親王の一人娘:嫄子女王(のちに関白・藤原頼通養女として藤原嫄子と名乗る/後朱雀天皇中宮)
皇后定子の孫、敦康親王の一人娘として、長和五年(1016)に生まれた嫄子女王は、幼くして父に死に別れ、母も出家したために伯母にあたる隆姫女王のもとにひきとられました。
隆姫女王は頼通に嫁いで何年も経っていましたが子供がおらず、隆姫女王の手前あまり女性に手を出せなかった頼通からすれば彼女は貴重な娘=将来の「后」でした。
とはいえど、後一条天皇(一条天皇次男、上東門院彰子の長男)には義理の叔母(義父頼通の妹・藤原威子)がすでに妻として君臨していました。
また当時の東宮であった後朱雀天皇にもやはり義理の叔母・嬉子や義理の従姉(義父頼通の姪)にあたる禎子内親王といった妻がおり、年頃になってもなかなか彼女は入内できませんでした。
しかし、後朱雀天皇の即位の際に「女御代」=将来の后候補となった彼女は20歳にしてようやく、後宮に入ることとなります。
この際に彼女は皇族としてではなく、義理の父である頼通の娘として藤原氏を名乗って入内しました。
入内した彼女は先に中宮に立后していた三条天皇皇女・禎子内親王を皇后に押しやって中宮に上ります。
祖母・定子がかつて皇后に追いやられた時のようなことが、今度は孫娘によって行われたのです。
追いやられた禎子内親王は子供たちとともに実家に籠りがちになり、後宮は中宮・嫄子の天下となりました。
さて、あとは上東門院彰子様のように、男皇子を産みさえすれば、私も女院に……!
そんなことを、嫄子は考えたかもしれません。
しかし、嫄子の強運はここまででした。
嫄子は後朱雀天皇の寵愛を受け(関白という強大な後ろ盾があるのだからある意味当たり前ですが)、二度妊娠しますが―産み落としたのはいずれも女子(祐子内親王、禖子内親王【六条齋院】)でした。
そして二度目のお産の後、嫄子は急死します。
入内してからおよそ4年、24歳という若さでした。
彼女の死によって、頼通の後宮政策が一度手詰まりを迎えることとなり、ひいては摂関家の斜陽へとつながるのですが……それはまたの機会にでも。
嫄子の生んだ二人の皇女は、義理の祖父である頼通の庇護のもと、大勢の女房達を抱え、後宮に劣らぬ平安朝のサロンを作り上げましたが、いずれも結婚することはありませんでした。
嫄子、ひいては皇后定子の血筋は、この二人の皇女の代で途絶えることとなりました。