九条兼実の野望を打ち砕き、後鳥羽上皇執政期の前半に権力を握ったのが、「源博陸」こと源(土御門)通親です。
源通親が権力を握る決定打となったのは、彼の養女である源在子が後に土御門天皇となる男子を産んだことでした。
後に承明門院という女院号を得ることになる源在子、養父源通親と密通していた!なんていうスキャンダラスな一面も持つ彼女の生涯はどのようなものだったのでしょうか。
平氏の血縁者として生まれて
承明門院 源在子 後鳥羽妃 土御門母 内大臣通親公女 母刑部卿範兼卿一女従三範子 正治元十二十三叙従三 廿九 同日准三宮 建仁二正十五院号 卅二 建暦元十二四為尼 四十一 殷富同名 真如観 真如妙 正嘉元七五御事八十七
引用:『女院小伝』
源在子は、実は源氏ではなく藤原氏の出身です。
在子の実父である僧侶・能円は令子内親王の半物(下女)が、藤原顕憲という公家と通じて生まれた子でした。
能円の母である令子内親王の半物(下女)は、もともと平時信という中流公家とも通じており、能円の父親違いの姉兄として平清盛継室・二位尼平時子と、平時忠を産んでいました。
その縁もあって、能円は平家一族と非常に関係が深く、当時六勝寺と呼ばれた院政とかかわりの深い寺院の一つ、法勝寺の僧侶(執行)となっていました。
ちなみに藤原顕憲の姉妹は摂関家の藤原忠実に寵愛されて、悪左府こと藤原頼長を産んでいます。どこか権力と密接に絡みつく家柄だったのかも……。
在子の母藤原範子は、刑部卿藤原範兼の娘で、能円と結婚したことで平家と縁ができました。
その縁もあってか、範子は、妹である兼子(「卿二位」「卿局」の呼び名で有名ですね)ともども、平家系の高倉天皇の第四皇子・後鳥羽天皇の乳母になりました。
この時、すでに在子は9歳になっていました。もしかしたら乳児である後鳥羽天皇を子供ながらにあやしたりしていたかもしれませんね。
しかし、平家滅亡の足音は忍び寄ってきます。
父能円は平氏とともに都落ちをすることを選びましたが、母範子は後鳥羽天皇ともども都に残ることを選び、離別しました。
源通親の養女として後宮入り
夫と別れた範子ですが、やはり新帝である後鳥羽天皇の乳母という立場は、非常にうまみのあるものでした。
シングルマザーとなった範子に近づいてきたのは、後白河院の覚えもめでたい公家・源通親でした。
二人は結婚し、範子と通親の間には3人の男児が生まれます。
また、範子と前夫能円の娘である在子も、通親の養女となりました。
ここで彼女は「源在子」となるわけですね。(「在子」という諱がついたのはもっと後のことかとも思われますが……)
そして、在子は養父通親の出世の手駒として、9歳年下の後鳥羽天皇の後宮に入ることとなります。
後鳥羽天皇の後宮の頂点には、九条兼実の娘・九条任子が中宮として君臨していました。
一方の在子は后妃ではなく、女官としての後宮の出仕でした。
彼女は当初「宰相の君」と呼ばれていたようです。
一女官が中宮には及ぶべくもありません。しかし、逆転方法はありました。それは、皇子を産むことです。
源在子、土御門天皇を産む
いまの御門の御いみなは為仁と申き。御はゝは能因ほうゐんといふ人のむすめ。さいしやうの君とてつかうまつられけるほとに。この御門むまれさせ給ひてのちには。内大臣通親の御子になり給ひすゑには承明門院と聞えき。
引用:『増鏡』
建久六年(1195)、中宮九条任子が妊娠します。任子の妊娠発覚から遅れて、在子も妊娠したことが判明します。
もしもここで九条任子が男子を産めば、すべては水の泡ですが……任子が産んだのは皇女(昇子内親王、のちの春華門院)でした。
そして、建久六年(1195)の暮れ、在子は待望の皇子を産みました。
のちに土御門天皇となる後鳥羽天皇の第一皇子を産んだことで、養父通親は、九条兼実に決定的な差を付けました。
翌建久七年(1196)、九条兼実は失脚します。兼実の娘であった中宮九条任子も後宮から去りました。
ここで、後鳥羽天皇の後宮の頂点に在子が立った……はずでした。
後鳥羽天皇の心をつなぎとめることはできず
在子は土御門天皇以降、後鳥羽天皇の子を産むことはありませんでした。
後鳥羽天皇の関心は他の女性に移っていたようで、後鳥羽天皇の従姉妹にあたる坊門信清の娘・坊門局(西御方)や、母範子の従妹にあたる二条局こと藤原重子らが寵愛を得るようになります。
藤原重子は在子の11歳下、後鳥羽上皇の2歳下です。若さなどでは、とても在子には太刀打ちできません。
彼女たちは後鳥羽天皇の子を次々と生んでいきました。
特に、藤原重子の産んだ守成親王は、その聡明さを愛されていました。
しかも重子は、在子に先立って従二位に叙せられています。その時、在子はまだ位階を持っていませんでした。
それでも、在子は養父通親がいる限り、どうにかなるとでも思っていたのかもしれません。
実際、建久九年(1198)には、在子所生の土御門天皇が即位します。
重子に後れを取ったものの、在子も、正治元年(1199)には従三位そして准三宮に任ぜられます。
さらに重子よりも先に建仁二年(1202)には院号宣下を受け、承明門院となります。
後鳥羽上皇の寵愛が薄れても、土御門天皇と、養父通親がいれば、何とかなる……
通親のことを、在子がよく頼っていたためか、とんでもないうわさが後世まで伝わることになります。
承明門院源在子は源通親と密通したのか?
正治二年(1200)、母範子が亡くなります。その後、おぞましいうわさがたちました。
源在子は養父である源通親と密通し、そのことを知った後鳥羽上皇は藤原重子をより寵愛するようになった―
しかしこれはあくまでも噂レベルの話かと思われます。
そもそも、正治二年(1200)以前に、後鳥羽上皇は藤原重子を寵愛するようになっています。(重子が初子・守成親王を産んだのはその3年前のことでした。)
養父通親にしても、摂関家出身の藤原伊子(松殿伊子)など、範子以外の妻がいますので、わざわざ危険を冒して密通する理由がありません。
そもそも、この噂を記録に残しているのは、九条兼実の弟である僧侶・慈円でした。
慈円からすれば、可愛い姪(九条任子)を後宮から追い出した女と、兄(九条兼実)の政敵であるその養父のことを良く思うはずがありません。
だから、このようなことを書いて後世まで残したのかもしれませんね。
後鳥羽上皇と離れて
建仁二年(1202年)、頼りにしていた養父通親が死去します。
彼女の後見となるのは異父弟たちを含めた通親の子供たちでしたが、通親ほどは頼りになりませんでした。
在子所生の土御門天皇は、穏やかな気性であったこともあり、後鳥羽上皇は頼りなく思っていました。
そのため、後鳥羽上皇は正治二年(1200)、寵愛する藤原重子の子・守成親王を土御門天皇の皇太子(皇太弟)とし、通親も死んだ後の承元四年(1210)に譲位させました。
後に順徳天皇と呼ばれることになる天皇が即位しましたが、同時に土御門天皇の子孫への皇位継承は微妙なものとなりました。
ちなみに土御門天皇には九条家から后妃が入内する予定だったのですが、後鳥羽上皇の差し金で順徳天皇への入内が決まっています。
後鳥羽上皇が明らかに土御門天皇よりも順徳天皇を気に入っていたことが分かりますね……。
在子はその翌年の建暦元年(1211)に出家します。後鳥羽上皇へのせめてもの抵抗だったのかもしれません。
承明門院と承久の乱
承久三年(1221)、承久の乱がおこります。
土御門天皇は順徳天皇、後鳥羽上皇とは異なり積極的に乱にかかわっていませんでしたが、父、弟と同じように罰を受けることを望みました。
土御門天皇は土佐、そして阿波への流罪となります。
承明門院は女院という身分もあり、土佐へとついていくことはできませんでした。
在子は、まだ幼児にすぎない土御門天皇の皇子・邦仁王を育てつつ、都にて土御門天皇の帰京を待っていました。
しかし、土御門天皇は在子のもとに戻ることなく、そのまま阿波国にて亡くなりました。
邦仁王の即位と晩年の栄華
阿波院の御子御位にと申ていでぬ。院の中の人++上下夢の心ちして物にぞあたりまとひける。仁治三年正月十九日の事なり。世の人の心ちみなおとろきあはてゝ。をし返しこなたにまいりつどふ馬車のひゞきさはく世のをとなひを。
引用:『増鏡』
承久の乱後、皇統は後鳥羽上皇の系統ではなく、後鳥羽上皇の兄である後高倉院の系統へと移っていました。
しかし、仁治三年(1242)、後高倉院の孫にあたる四条天皇がわずか12歳で、当然のことながら子供もなく亡くなってしまいます。
次の天皇の候補は、土御門天皇の皇子・邦仁王と、順徳天皇皇子・忠成王の二人でした。
そして、鎌倉幕府からすればやはり承久の乱に積極的だった順徳天皇の皇子よりも……ということで、土御門天皇皇子・邦仁王が次の天皇に選ばれました。
邦仁王は即位し、後嵯峨天皇と呼ばれることになります。孫の即位を見届けた承明門院は、感激の極みだったでしょう。
承明門院はその後15年余り生き、正嘉元年(1257年)に、87歳で亡くなりました。
亡くなったときの天皇は、承明門院のひ孫にあたる後深草天皇で、さらに鎌倉幕府将軍も承明門院のひ孫にあたる宗尊親王でした。
いわば東西のトップをひ孫に持っていた……と考えるとなかなかすごいですね。
「承明門院」の読み方と意味
「承明門院」は「しょうめいもんいん」と読みます。
承明門院という名前は、内裏の内郭門の一つ「承明門」に由来します。ちなみに、向かい合うようにある外郭の門は「建礼門」です。