石橋山の戦いで敗走した源頼朝を見逃し、その後頼朝の忠実な家臣となったことで知られるのが梶原景時です。侍所別当、厨別当など重職を歴任しただけでなく、和歌を好むなどの教養溢れる一面もあったとか。
しかし頼朝死後、その運命は暗転し、最終的には討伐される羽目になるのですが……。
そんな梶原景時の妻、子、子孫にはどのような人物がいるのでしょうか。
気になるので調べてみました。
梶原景時の妻:不明
梶原景時の妻がどのような人物であったのかは不明です。ただ梶原景時や梶原一族の滅亡後も生きていたことは確かなようで、梶原景時の妻は景時死後、尾張内海庄などの所領を安堵されたという記録が残っています。
また、鎌倉時代後期の僧・無住(一説には梶原景時の孫?とも、梶原氏子孫とも。)による『沙石集』によると、景時死後、世や人を恨んで過ごしていたけれども、栄西(禅宗の一派、臨済宗の開祖)に帰依して恨みを捨て、建仁寺の塔の建立に尽力したとのことです。
また鎌倉の建長寺では、現在に至るまで毎年「梶原三門施餓鬼会」という仏事が行われています。これももしかしたら、自分の夫や子を失った梶原景時の妻の手によってはじめられたものかもしれませんね。
梶原景時の息子:景季
梶原景時の嫡男として生まれました。父同様に頼朝に重用され、頼朝の寝室警護11名の中に選ばれたこともあります。源平合戦時、義経とはライバル関係にあったようで、義経の独断専行を非難したり、先陣争いをするなど不穏な関係だったようです。
一方で義経が後白河法皇に官位を与えられた際には、ちゃっかり自分も任官していたりするので、よく分かりませんね……。この任官で義経は頼朝から不興をかってしまいますが、景季は父景時のおかげもあってか、あまりおとがめなくすんだようです。その後も頼朝の寵臣として活動しますが、頼朝死後その運命は急速に暗転、父とともに族滅の憂き目にあうことになります。
景季の妻は不明ですが、愛人(妾)に、龍樹の前なる女性がいたそうです。龍樹の前の詳細は不明ですが、一説には御所の女房だったとも。景季の息子の景望は、叔母の宇都宮頼綱室を頼って下野国に下向し、下野国で子孫を残したと言われています。一説には馬込荘の初代地頭となったとも言われています。
梶原景時の息子:景高
梶原景時の次男が景高です。父や兄同様、源平合戦や奥州合戦で活躍しました。さらに父譲りの歌才もあったようで、戦勝歌を詠むこともあったとか。一方で頼朝には「人相が悪く痴れ者」と評されることもありました。とはいえど、父景時、兄景季同様に、頼朝に寵愛された家臣だったようです。しかし、父や兄と運命を共にし、梶原氏滅亡時に討ち死にします。
景高は尾張国守護・小野成綱の娘と結婚していました。息子としては、荻野景継、荻野景員の名前が伝わります。いずれも梶原姓を名乗らなかったのは、景時への遠慮でしょうか。
景継は三代将軍実朝の代に御家人として使えますが、承久の乱時に京方に属し戦死したとも、永福寺にて出家し僧侶になったとも言われています。小野成綱の子供たち(景継のおじ達)は、いずれも京方として活動していたため、景継も京方に属したのかもしれませんね。
荻野景員については詳しいことは分かりませんが、御家人として随兵の列に加えられることもあったそうです。
梶原景時の息子:景茂
梶原景時の三男が梶原景茂です。武勇に優れ、源平合戦や奥州合戦でたびたび戦功をあげました。またこの間に、鎌倉方の手に落ちていた静御前のもとを訪れ、酔いに任せて口説くもこっぴどくふられてしまった……なんて話も。
そんな景茂も、父景時同様に梶原景時の乱で亡くなりました。景茂の子の景永は父の死後、陸奥国に下向します。そして現地の早馬神社の神主として土着します。
また景茂には、景俊という息子もいたようですが、こちらの子孫はどうなったのかはよく分かっていません。
景永の子孫は、時代が下がるにつれ西国(畿内、阿波、讃岐など)へと広がりを見せ、その子孫の一部は戦国時代に、尾張国の織田信長の家臣となりました。織田信長家臣、尾張国羽黒城主・梶原景久や美濃国岩村城主・団忠正(いずれも本能寺の変に際して明智光秀に討たれたと伝わる)、土佐藩の始祖として知られる山内一豊の母・法秀院は、景時、景茂、景永の子孫だと言われています。
また讃岐国へと広がりを見せた景永子孫は、戦国時代には瀬戸内の村上水軍同様、いわゆる海賊として活動し、のちに黒田藩の家臣となったといわれています。
梶原景時の息子:景義
梶原景時の息子として名前は伝わりますが、詳細は不明です。おそらく、梶原景時の変で滅亡した景時一族33名の中の1人ではないでしょうか。
梶原景時の息子:景国
梶原景時とともに、狐崎で一族もろとも討たれました。六郎とあることから考えると、六男でしょうか?
梶原景時の息子:景宗
景国同様、梶原景時とともに、狐崎で一族もろとも滅亡しました。七郎とあることから考えると、景国の弟で七男でしょうか?
梶原景時の息子:景則
景国、景宗ら同様、父景時とともに狐崎で一族もろとも討たれました。八郎とあることから考えると、景時の八男でしょうか?
梶原景時の息子:景連
景国、景宗、景則同様に、狐崎で一族もろとも討たれました。九郎とあることから考えると、おそらく景時の九男ではないでしょうか。
梶原景時の娘:宇都宮頼綱室(側室?)
梶原景時の娘の1人は、宇都宮頼綱に嫁いだと言われています。父の景時も武家歌人として名高い人物でしたが、宇都宮頼綱も歌人として優れた人物でした。ある意味では父親とよく似た人物と結婚したことになりますね。(頼綱は小倉百人一首の作者・藤原定家の息子と娘を結婚させています。さらに、小倉百人一首自体が、宇都宮頼綱のために選ばれたものだとも言われていますね。)
しかし、夫の頼綱は、他の御家人とともに、父景時を弾劾し、景時の滅亡のきっかけを生み出すことになります。さらに、頼綱は北条時政の娘とも結婚していました。景時の死後はかなり肩身の狭い思いをしたのかもしれません……。
一説には、景時娘は1220年、宇都宮頼綱の七男となる多功宗朝を産んだと言われています。彼の子孫は下野国の大名・宇都宮氏の家臣として戦国時代まで続き、宇都宮氏改易後は今治藩家臣となったと伝えられています。
梶原景時の孫:家茂
上記息子の誰かの息子と思われますが、詳細は不明。族滅時に命を奪われることを免れましたが、承元三年(1209)に、土肥実平の弟・土屋宗遠に宿怨によって鎌倉の和賀江島のあたりで殺されてしまいます。宗遠の正当性は認められませんでしたが、宗遠自身は特にお咎めなく赦免されています。
梶原景時の孫?:無住
宇都宮頼綱室・梶原景時娘の甥と伝わることから、梶原氏出身で、梶原景時の孫だと思われます。
出生は1227年(嘉禄二年)であることからすると、景時の息子たち(1200年に梶原景時の変で族滅)の子供ではないような気もしますが……。梶原景時の変を生き延びた景時息子もいたのかもしれませんね。それか、景時の娘の子供で母方の梶原氏を名乗っていたのかもしれません。
八宗兼学の僧として知られ、臨済宗だけでなく、真言宗、律宗、天台宗、浄土宗、法相宗など古今の様々な宗派に精通していました。仏教説話集『沙石集』を記したことで有名です。