卑弥呼~邪馬台国の女王の謎に迫る~

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

謎多き、邪馬台国の女王卑弥呼。彼女はどんな人物だったのでしょう。
調べてみました。

卑弥呼の年表

西暦180年代?
卑弥呼が邪馬台国の女王になる。
それまでは「倭国大乱」と呼ばれる混乱状況にあった。

西暦239年
卑弥呼が魏に使いを送る。

西暦247年~248年
邪馬台国と狗奴国との戦いが始まる。
卑弥呼は戦いの終わる前に亡くなる。

以上魏志倭人伝よりわかる範囲だと、だいたいこんな感じです。

卑弥呼の性別は?

魏志倭人伝によると

南至邪馬壹國 女王之所都

であったり、

倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼

とあるように卑弥呼は「女性」と考えられます。

とはいっても字面だけでは判別しづらいですね。

「卑弥呼」は何と読むのか?

一般的には「ヒミコ」と呼びますね。
でも、そもそも当時の中国でこの漢字を何と発音したのかは正直分かっていません。
この呼び方は現在の漢字の音読みにあてはめたものですね。

そのため「ヒメコ」「ヒメカ」「ミヤコ」「ヒムカ」など……
本当はこうじゃない?という説がいっぱい出ています。

ちなみに現在の中国のピンインにすると「ベイ ミイ フウ」みたいな読み方……

ヒミコ、とは似ても似つかないですね。

卑弥呼は実在したのか?

おそらく実在したのでは……?くらいです。
あまりにも昔の人物すぎるうえ、卑弥呼の存在を示すのは「魏志倭人伝」くらいです。
なんと日本書紀や古事記には一切姿がないのです。

ちなみに日本書紀・古事記の人物と卑弥呼を同一視する見方は昔からあります。
有力視されているのは、倭迹迹日百襲媛命という第7代孝霊天皇の皇女です。
卑弥呼も巫女でしたが、彼女もまた巫女であったようです。

卑弥呼の弟とは?

卑弥呼の弟については、魏志倭人伝上で、

有男弟 佐治國

と記載があるのみで、名前すらわかりません。
ちなみに女性が祭祀、男性が政治を担うその在り方と、「ヒメヒコ制」とのかかわりを指摘する声もあります。
(ヒメヒコ制についてはまた後日。)

卑弥呼は天皇と関わりがあるのか?

卑弥呼の弟が古代の天皇(大王)のようなものだとしたら、関わりがあるといえるでしょう。


現在の天皇家が邪馬台国からの直系なのか、そうでないのかは諸説あります。

ちなみに伊勢斎宮など、皇族の女性が巫女となる風習は昔からありました。
また先述の倭迹迹日百襲媛命も巫女でした。

卑弥呼の死因は?

不明です。ただ女王になった時期が180~190年ごろだと考えると、239年に魏に使いを送った段階で卑弥呼はかなりの老人だったでしょう。
病気で亡くなったのかもしれません。

なお247年・248年に日本で部分日食が起こったと考えられており、それを不吉、卑弥呼の霊力の衰えとみなした民衆によって卑弥呼は死に追いやられた、という説もあります。

ちなみにモデルでは?と言われている倭迹迹日百襲媛命の死因は「箸が陰部を突いたため」だそうで。なかなか衝撃的ですね。

卑弥呼の墓は?

魏志倭人伝によると、

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

とのこと。

有力視されているのは、倭迹迹日百襲媛命の墓と伝わる「箸墓古墳」です。

他に福岡県の祇園山古墳、平原遺跡などが有力視されています。

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