日本最初の女院 東三条院 藤原詮子 その生涯について

東三条院 藤詮子 円融后一条母 東三条関白兼家二女 母摂津守藤仲正 山蔭卿七男也 女 貞元二 十一月四日 為女御 寛和二 七五 為皇太后 正暦二 九十六 為尼 年三一今年二月十二日円融有御事 同日院号年官年爵封戸如太上天皇 或九一丁酉院号同立日入道云々 長保二閏十二二十二御事有 年四十

『女院小伝』より

女院とは、天皇の后妃・母や女性皇族を太上天皇になぞらえて優遇した制度です。
院号には地名もしくは内裏の門の名前が使われていました。
特に中世は多くの女性が女院に任じられており、力を持った女院もいればそうでない人もいますが、その例の一番最初になった人は確かに権力を持っていました。

日本における最初の女院は「藤原詮子」、藤原道長の姉で、一条天皇の母であった女性です。

彼女の兄弟三人はいずれも摂政・関白にあがり、彼女の姉は冷泉天皇の女御になりました。

そして詮子もまた、宮中にあがります。姉の夫の弟、円融天皇の女御として。
そして彼女は円融天皇の唯一の子を産みます。

しかし彼女は天皇の一番の妃、中宮になることはできませんでした。
円融の后は当時の関白、藤原頼忠の女遵子だったのです。

歴史書『大鏡』にこのような話が載っています。

御妹の四条の宮の后に立ち給ひて、初めて入内したまふに、洞院のぼりにおはしませば、東四条の前を渡らせたまふに、大入道殿も、故女院も胸痛く思しめしけるに、按察大納言は后の御せうとにて、御心地よく思されけるままに、御馬をひかえて、「この女御は、いつか后には立ちたまふらむ」と、うち見入れてのたまへりけるを、殿を始めたてまつりて、その御族やすからず思しけれど、男宮おはしませば、たけくぞ。

『大鏡』

決して皇后にはなれない、しかし彼女には所生の男児がいました。
それだけを頼みに彼女は実家の東三条殿で耐え忍びました。

そして彼女の産んだ皇子は東宮になり、そして一条天皇になりました。
彼女は円融の后の遵子を皇后の座にとどめたまま、それをも上回る地位として皇太后になり、そして円融天皇の死後、出家します。
そして本来停止されるはずだった后妃の待遇をさらに強化した「女院」となったのです。

権力を握った彼女に怖いものはありませんでした。
兄道隆の死後、甥伊周と弟道長の間で権力争いが起こったとき、彼女は迷いなく道長を支持します。
内裏の清涼殿の一条天皇の寝床で息子に直訴し、道長を内覧(摂関の手前の職)につけさせるなど、その権力をいかんなく発揮しました。
(このことにより道長は摂関政治の最盛期を築き上げました。)

しかし彼女も病には勝てず、自らの院別当であった藤原行成の邸宅で、41歳で亡くなりました。
彼女の子であった一条天皇はその報告を受けた時に何も言わなかったと、藤原行成の日記「権記」に記載があります。
悲しみのあまり声が出なかったのか、最愛の后定子の心労と死の遠因となった母へ向ける言葉がなかったのか。

いずれにせよ権力を握った女性としては寂しい最期のように思います。

彼女の次に女院となったのは藤原彰子。
彼女が引き立てた道長の娘で、彼女自身も彰子の入内を後押ししたといわれています。

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