日本史

中世史(日本史)

大賀弥四郎(大岡弥四郎)の妻子と一族たち

天正三年(1575)、武田氏と内通したとして、岡崎城下の町奉行を務めていた武士・大賀弥四郎(大岡弥四郎)が鋸引きという酷刑にて亡くなりました。 彼の死からおよそ4年後、彼の主君でもあった徳川信康(松平信康)は父によって自害を命じられ、死に...
中世史(日本史)

築山殿(瀬名姫)は武田の間者と密通(不倫)したのか?

大河ドラマ『どうする家康』では、瀬名姫と家康は別居こそしていますが、夫婦としてお互いを尊重し、愛し合っている様子が見受けられます。 とはいえど、浜松と岡崎、別居状態にあった二人が果たして本当に最後まで愛し合っていたのか?というのはかなり不...
中世史(日本史)

振姫 会津藩を牛耳った家康の三女

家康には5人の娘がいますが、そのうち2人(4女・5女)は嫁ぐことなく幼くして亡くなっています。 家康の成長した3人の娘たちはいずれも政略結婚の駒となり、家康と有力大名家を結び付ける役目を果たしました。 今回紹介するのは、家康の三女・振姫...
中世史(日本史)

督姫(ふう、おふう、富子) 政に翻弄された家康の次女

家康の長女・亀姫は、身内の相次ぐ死などに翻弄されつつも、結婚生活そのものは穏やかでした。 しかし家康の次女・督姫、そして三女・振姫は(おそらく)意に添わぬ再婚を余儀なくされるなど、波乱の結婚生活を送っています。 今回紹介したいのは、家康...
中世史(日本史)

亀姫 強くあらねばならなかった家康の長女

大河ドラマ『どうする家康』では「母に似て愛らしく天真らんまん」「素直でたおやか」な人物として描かれている家康の長女・亀姫。 ただ伝承に残る彼女はなかなか苛烈な女性であったようです。 とはいえど、実父によって母、そして実兄を死に追いやられ...
中世史(日本史)

本多忠真の妻と子と子孫たち

まだ赤ん坊の時の父親を亡くした徳川四天王の一人・本多忠勝は、叔父の本多忠真の庇護下で本多家の当主として成長します。 甥の忠勝を優しくも厳しく見守った忠真ですが、三方ヶ原にてこの叔父は徳川軍の殿を務め、壮絶な討ち死にを遂げることとなります。...
中世史(日本史)

松平勝俊(松平康俊・久松勝俊)の妻(正室)と娘

家康の異父弟(母・於大の方が久松長家との間に儲けた子たち)たちは三人まとめて「久松三兄弟」と言われたりします。 彼らは家康の兄弟として厚遇され、彼らの娘たち(家康の姪)たちは、家康の養女として様々な大名家に嫁ぎました。 長男の男系はあま...
中世史(日本史)

家康の次男・結城秀康正室:江戸鶴子

家康の次男のとして生まれた於義丸は、長男・信康の死後も結局家康の後継者に選ばれず、秀吉の人質(養子)となり、その後鎌倉よりの名門・結城家の後継者となることとなります。 彼が結城家に養子入りするにあたって、妻に迎えたのが結城晴朝の養女であっ...
中世史(日本史)

実は家康の従姉妹?結城秀康の母・長勝院お万(於古茶)の方

家康には数十人にも上る大勢の側室がいたことは知られていますが、その一方で正式な側室として認められていない女性も少なからずいたようです。 正式な側室扱いでなかったのでは?と言われる女性の一人が、家康の次男となる結城秀康を産んだ「お万の方」(...
中世史(日本史)

明智光秀と信長の橋渡し役?謎の女「御ツマキ」

明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのか?という謎はおそらく永遠に解けることはないでしょうが、いずれにせよ二人の間に何らかの溝が生まれていたことは間違いないでしょう。 その溝がなぜ生まれたのか?ということを考えるにあたって、考慮に入れた方が...