徳川家康の家臣たちの中でもいわゆる「謀臣」として名高いのが本多正信ですね。
一時は三河一向一揆で家康より離反し流浪、なんとあの梟雄・松永久秀のもとに身を寄せた!なんて噂話もあったりしますが、のちのち家康のもとに帰順し、以後は家康に忠実な家臣として仕えていました。
ただこの「謀臣」としてのイメージが災いしたか、正信の死後、長男・正純は宇都宮釣天井事件で大失脚をかますことになるのですが、これはまた後々の話。
今回は家康の「謀臣」として名高い本多正信の妻(正室、継室、側室)について調べてみました。
本多正信の正室:桂芳院殿永昌大姉(戒名のみ伝わっているようです)
本多正信には三人の息子がいますが彼らの母親はいずれも『寛政重修諸家譜』だと「某氏」とのみあるため、誰なのか分かりません。(他にも二人の娘がいた!ともいいますが『寛政重修諸家譜』では確認できず……)
ただ正信の菩提寺である浅草の徳本寺には「本多正信夫人」と題する絵が残っており、それによると正信の子たちは正室の「桂芳院殿永昌大姉」の所生だったようです。
彼女がいつごろ亡くなったのかは分かりません。正信には後妻・寿林尼がいたとされるので、正信よりは早くに亡くなったと思われますが……。
ただ後妻とされる寿林尼と混同されている節もあるため、もしかしたら正信の死後、寛永年間まで存命だったかもしれません。
本多正信の継室?:寿林尼(釋屋妙受大姉?)
本多正信には後妻・寿林尼なる女性がいたと伝わります。
ただwikipediaで彼女の戒名とされている「釋屋妙受大姉」については、どうも上記の「本多正信夫人」の画像にも記載があるので、そうだとすると疑問点が多かったりします。
正信に本当に後妻がいたのか、それとも前妻と混同されてそのような記録が残ったのか?よくわかりません。とりあえずわかることだけ書いていきます。
彼女は正信の死まで連れ添い、正信の死後は落飾し、「寿林尼」と名乗りました。
浄土真宗の熱心な信徒だったようで、寛永年間に、徳川秀忠に頼んで親鸞の木像を相模国永勝寺から本山に返却させています。
しかし、寛永年間まで生きていたということは、継子と思われる本田正純の失脚まで見届けているわけですね。
正純の失脚時にはかなりつらい思いもしたのではないでしょうか。
本多正信の側室:不明
本多正信に側室がいたかどうかはわかりません。
当時の男性武将の多くが側室を持っていたことを考えると、側室がいてもおかしくはありませんが……。
一応正信の子は正室との間にすべて生まれているようなので、側室がいなかったと言う可能性も否定できません。