家康はその生涯で何度も死を考えるほどに追い詰められたといいます。そのような危機の一つに、家康のお膝元・西三河で起こった三河一向一揆がありました。
三河一向一揆は何分宗教がからんでいることもあり、後の側近・本多正信ら多くの家臣の離反も招き、家康の精神面にも多大なダメージを与えました。
家康の旗印とも言われる「厭離穢土欣求浄土」の言葉は、この時の一向一揆衆のスローガン「進是極楽退是無間地獄(すすめば極楽、下がれば無間地獄)」に対抗するものだったとかとも言われていますね。
家康の後々の考え(対宗教観)などにも多大な影響を与えたと思われるこの三河一向一揆の、一揆側の精神的支柱となったのが野寺本證寺重職・空誓上人でした。
空誓とはどのような人物だったのでしょうか?気になったので調べてみました。
空誓の名前の読み方は「くうせい」
空誓の名前は「くうせい」と読むと考えられています。名前の由来はおそらく、空誓上人の実父・実誓にちなんでのものでしょうね。
空誓上人は一向宗のサラブレット(蓮如のひ孫)として生まれた
空誓上人は、近江堅田寺の住職・実誓とその妻である公家の娘(権大納言四条隆永の娘)との間に生まれました。
父の実誓は父方からも母方からも本願寺中興の祖・蓮如の直系子孫であり、空誓上人も世が世なら本願寺の跡を継いでいたかもしれません。
ちなみに、空誓上人は、いつ頃生まれたのかなどはよく分かっていません。
ただ永禄四(1561)年に先代の跡を継いで本證寺住持となったことを考えるならば、三河一向一揆時には、まだ住職になって2年ほどだったと考えられます。
彼の生まれなどを考えると、かなり年を取ってから寺院を手にしたとは考えづらいです。また彼は家康が亡くなる2年前、慶長19年まで存命でした。
これらのことから考えるに、おそらく三河一向一揆時には相当若かったのではないでしょうか?家康とは同年代だった思われます。
さて、近江で育った空誓上人は、畿内から遠く離れた西三河の野寺本證寺(野寺御本坊)を継ぐこととなります。
野寺本證寺の先代当主・玄海は遠い加賀において、加賀一向一揆に参陣、亡くなっており、後継者がいなかったのです。
慣れない異郷における住持の活動は相当大変だったのではないでしょうか?もしかしたら、家康ともめた原因にもこのあたりのことは影響していたのかもしれませんね。
空誓上人と三河一向一揆
三河一向一揆の発端については諸説あります。
一説には野寺本證寺の守護使不入権(役人が立ち入れられないという権利、一種の治外法権ですね)を松平氏の家臣が侵したからとも、野寺本證寺と並んで三河三箇寺と呼ばれた一向宗の寺院・上宮寺から無理やり兵糧米を徴収したからともいいます。
何にせよ、松平氏の側がそれまでの一向宗側の既得権益を侵害したのは間違いないようですね。
僧侶と農民たちら一向宗徒だけなら、そこまでひどいことにはならなかったでしょう。しかし、一向宗の信仰は武士にまで広がっており、三河の武士団たちにも一向宗は根付いていました。
家康の家臣・石川数正なども一向宗の信徒だったといいます。(彼は棄教して家康につきました。)
とはいえど、少なからぬ数の家臣が一向宗の側につきました。
そこに吉良義昭ら、松平氏によって追いやられた三河各地の領主たちもついたことで、三河一向一揆は泥沼の様相を呈します。
しかしそこはやはり家康の天性の運の強さか、徐々に家康が一向宗を圧倒し始め、最終的に水野氏らの援軍を得た家康が勝利します。
空誓の命も危うくなりますが、空誓の代わりに、一向宗寺院・桜井円光寺の順正と言う僧侶が「我こそが空誓なり!」と身代わりになったため、空誓は生き延びました。
とはいえど、家康からすればやはり恐ろしいものの芽を摘んでおかねばなりません。野寺本證寺は激しく破却され、空誓は三河の奥地へ追いやられることとなります。
家康との和解後の空誓
家康に宗教の恐ろしさを植え付けた男・空誓はしばらくの間雌伏の時を過ごしていました。
とはいえど、全く活動をしていなかったわけではなく、石山合戦の際には助力をするなどしていたようです。あくまでも一向宗の僧侶としてふるまっていたのですね。
もともとは近江出身でしたから近江に帰ったりもしていたのでしょうか?
それともあくまでも三河での活動にこだわったのでしょうか?この辺りはよく分かりません。
彼のご先祖様にあたる蓮如上人も、大谷本願寺の破却→越前吉崎御坊への下向→本願寺再興と大変な目に合っていますから、ご先祖様と同じようにがんばらねば、とでも思っていたのかもしれませんね。
三河一向一揆からおよそ20年たった天正十一(1583)年、ようやく三河国で一向宗の禁教が解かれることとなります。
空誓はフライングで許可も得ずに一向宗の道場を立てるなど早速いろいろやらかしましたが、あまりお咎めのないままその後には念願の野寺本證寺の復興まで果たしています。
とはいえど、三河一向一揆後の記憶も根強いからでしょうか、空誓はその後は基本的に家康と協調する方向で活動を進めました。
その甲斐もあってか、晩年慶長年間には家康と面会したり、江戸城に招かれたりとかつての的とは思えないほどに厚遇を受けています。
また家康の頼みもあって、家康の九男・尾張藩主徳川義直とも昵懇な間柄だったようです。
空誓のこの働きのおかげもあってか、江戸時代を通して野寺本證寺は江戸幕府の庇護を受けました。
野寺本證寺の代々の住持は尾張藩主や江戸幕府将軍の代替わりのたびに拝謁すると言うなかなかの好待遇を受けています。