元禄を代表する事件「赤穂浪士の討ち入り」における敵役・吉良上野介。
「吉良」という変わった苗字を覚えていた人は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で「おや?」となることもあったかもしれませんね。
三河国の西条吉良氏の当主の三男として生まれた後、数奇な運命の果てに東条吉良氏の当主となり、その後三河一向一揆で家康と敵対することになる三河国の有力者・吉良義昭。
奇しくも後の将軍・足利義昭と同名のこの人物がどのような人物なのか、調べてみました。
吉良義昭の前半生
今川義元、三河荒川山に出陣し、西條の城将吉良義昭を攻む
引用:『大日本史料』三河西尾城将吉良義昭、織田信長に通じ、東條城に移り、牛久保城将牧野成定をして、西尾城を守らしむ、
引用:『大日本史料』
吉良氏は、足利氏の庶流であり、室町幕府の時代には名門として幕府の要職を歴任するほどの地位にありました。
しかし、時は戦国時代、吉良氏はいつのころからか中央から三河へ下向、そのうちに地方の一領主にまで落ちぶれていました。
吉良義昭が生まれたのはそんな時代です。
吉良義昭は、吉良家の嫡流、西条吉良家の当主・吉良義堯の三男として三河国西条の地に生まれました。
彼には長兄・義郷と義安がおり、おそらくそのままならば、土地などをもつこともなく、兄たちの家臣として一生を送ったことでしょう。
しかし、運命はこの時、義昭に微笑みました。
まず、長兄義郷が急死します。次兄義安が跡を継ぐはずでしたが、この時思わぬ方向から横やりが入りました。
一時は本家にもなりかわろうとしていた吉良氏の分家の一つ・東条吉良家の当主・吉良持広が若くして死去したのです。
持広の弟・義広はすでに別家・荒川家を立てていました。また持広の子はまだ幼く、到底当主が務まるとは思われませんでした。
後継ぎのいない東条吉良氏は西条吉良氏から養子を迎えることにしたのです。
その婿養子に次兄・吉良義安が選ばれました。なぜ三男である義昭ではなく、次期当主の座も近い次男・義安が養子にいったのかは分かりません。
もしかしたら長兄・義郷の生前にはすでに養子の話でもあったのかもしれません。
あるいは長兄・義郷と義昭は正室の子と思われることに対し、次兄・義安は側室の子であったことが影響したのか?(義安の母は正室・今川氏の姫君ではなく側室の後藤氏の娘とも言います。)
そのあたりの詳しいことは分かりません。
事実として、長兄の死、次兄が別家に養子に行ったことで、それまで日陰の身であった義昭はそのまま西条吉良氏の当主となりました。
しかし西条吉良氏の当主になったところで、三河国は戦乱の様相を呈していました。松平氏をはじめとして、戸田氏、水野氏……。
さらには三河は、駿河を治める血縁(父義尭の正室は今川氏親の長女で今川義元の姉)と思われる今川義元率いる今川家、西の尾張の強豪・織田家に挟まれているという有様。
松平氏がそうだったように、義昭もまたこの間に挟まれて奔走しました。
義昭は当初、今川方として活動しました。今川氏の義昭にかける期待は大きかったようです。
次兄・義安が一度織田氏に協力した際には、今川氏のもと、義昭が東条吉良氏当主の地位をも引き継いで東西吉良氏の当主とまでなっています。
しかし、その後義昭はたびたび織田家に寝返ったり、今川氏に再びすり寄ったり……と繰り返していました。
義元は親戚ということもあったためでしょうか、それを強くとがめることもなかったようですが……。
斯波義銀と吉良義昭
『信長公記』また『清州合戦記』にこの話があるそうですがどの文章のあたりかはちょっと探しきれませんでした。
おそらく『信長公記』中の「武衛様と吉良殿と御参会之事」という表題の下りだと思われるのですが……。
義昭が織田家と今川家の間を右往左往していた弘治二年(1556)頃のことだと言われています。
義昭は織田信長の仲介の元、当時の尾張国の名目上の国主であった斯波義銀と同盟を結ぶという話を受けました。
織田氏のもとに向かう義昭の警護(あるいは監視?)として、なんと今川義元直々に近くまでついていったとか。
三河国上野(石橋氏の戸田館とも)の地にて行われた尾張守護・斯波義銀と三河国吉良氏当主・吉良義昭の会談ですが、お互い何一つ身動きせず、まったく良好なものではありませんでした。
まず、吉良氏は室町幕府将軍家・足利氏の庶流でした。しかしそれは実は、斯波氏も同様。
お互いどちらの家格のほうが良いのか―会談前から席次などを巡ってバチバチにやりあっていたため、この会談は大失敗に終わります。
ちなみにこの時、織田軍は遠目ながらに今川義元の容姿を見ていたため、後年の桶狭間にて一目散に義元にとびかかることができたのでは?なる説まであるとか。
もしもそうなら、吉良義昭はある意味戦国のキーパーソンだったのかもしれませんね。
吉良義昭と桶狭間の戦い
今川氏と織田氏の間を行ったり来たりしていた義昭ですが、終わりはいきなり来ました。
桶狭間の戦いにおける今川義元の死、そして今川氏真のもとの今川氏は駿河を守るのに必死で、三河国における影響力はどんどんと低下していきました。
このころ、松平氏が松平元康―後の徳川家康のもとで、今川氏の影響下から離れ、三河統一の動きを見せ始めました。
さらに元康は、吉良氏を三河国における今川派だとして、積極的に攻めるようになったのです。
東条吉良氏出身の荒川義広が元康の妹婿になるなど、身内の裏切りなどもあり、義昭はかつては同格、むしろ格下と見下していてもおかしくない松平氏の支配下に入ることを受け入れざるを得ませんでした。
永禄四(1561)年、桶狭間の戦いからわずか1年後に、吉良義昭は松平元康に忠誠を誓います。
その後、かつて元康が駿府にとどめ置かれたように、義昭もまた西条の地を離れて岡崎に住まわされることとなります。
吉良義昭と三河一向一揆
三河佐々木城将菅沼定顕、同国一向宗上宮寺に違乱を為すに依り、同寺、本証寺及び勝鬘寺と謀りて、一揆を起す、酒井忠尚、吉良義昭、荒川義広、松平家次、夏目吉信等、之に党し、其主松平家康に抗す
引用:『大日本史料』
三河一向宗門徒、松平家康に降る、尋で、松平家次降り、荒川義広、吉良義昭、酒井忠尚、敗績して、出奔す
引用:『大日本史料』
おそらく見下していただろう松平氏への恨みつらみを熟成させていたであろう義昭ですが、思わぬところで松平氏はしくじり、そして三河一向一揆が起こります。
義昭はかつて敵対したこともある東条吉良氏出身の荒川義広らを引き入れ、自ら三河一向一揆の一員として積極的に元康―徳川家康へ襲い掛かります。
しかし、家康は追い詰められながらもじわじわと三河一向一揆を治めていき、最終的に義昭の居城であった東条城を逆に攻め落としました。
落城した東条城から命からがら逃げ伸びた義昭ですが、家康の支配下となった三河の地で生きることは許されませんでした。最終的に彼は西へ逃げ、摂津国にて死去したといいます。
ちなみに、義昭の出奔後、東西吉良氏の当主には、義昭の次兄義安がつきました。この義安の子孫が江戸幕府の高家・吉良氏となり、吉良上野介義央を輩出します。