鎌倉幕府第六代将軍・宗尊親王の妻(正室、側室)と子供たち

中世史(日本史)

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鎌倉幕府の将軍は源氏将軍が3代で絶えた後、頼朝の妹の子孫である摂家の子息を将軍としていました。

しかし、四代目将軍・藤原頼経、そしてその息子の5代目将軍・藤原頼嗣はいずれも若いうちに将軍位を追われ、京へと追放されます。

新たに鎌倉幕府が迎え入れたのは、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王でした。

宗尊親王は後嵯峨天皇の第二皇子でしたが、中宮所生の異母弟たちの存在により、皇位をつぐことが難しい立場にあったため、将軍就任は考えられる中では最良の選択肢でした。

鎌倉幕府からすれば、三代目将軍・実朝の時以来待望の宮将軍の就任となります。

そうして鳴り物入りで迎え入れられた宗尊親王ですが、彼もまた前代将軍の時のように……。

ここでは、朝廷と幕府に翻弄された鎌倉幕府六代目将軍・宗尊親王の妻と子について調べてみました。

宗尊親王の正室:近衛宰子

故岡屋禪定殿下兼經公御息女〔御年二十〕爲最明寺禪室御猶子。御下着。則入御山内亭。是可令備御息所給云々。

引用:『吾妻鏡』

宗尊親王の正室は、摂家出身の近衛宰子という女性でした。

彼女は、前代将軍・頼嗣の従姉妹(母・仁子が四代目将軍・九条頼経の同母妹)にあたり、頼朝の妹・坊門姫の子孫でもありました。

宗尊親王は当代の治天の君(院政を行っていた上皇)の息子でありましたが、頼朝との血縁関係はありません。

頼朝の遠縁にあたる宰子との結婚で、宗尊親王の将軍位をより権威付けようとしたのでしょう。

また、彼女は輿入れにあたって、当時の執権・北条時頼の猶子となっています。

前代の御台所である檜皮姫が亡くなった後の、新たな北条家と幕府の懸け橋となることも期待されていたのでしょうね。

御母御息所は、近衛殿の大殿と聞こえし御女也。父御子の、将軍にて御座しましし時の御息所也。先に聞こえつる禅林寺殿の宮の御方も、同じ御腹なるべし。

引用:『増鏡』

宰子は宗尊親王の正室として、七代目の将軍となる惟康親王と、亀山上皇・後宇多天皇の側室となった揄子女王の二人の子を産みました。

そのまま安穏に御息所として、暮らして行けたはずの彼女は、とんでもない騒動に巻き込まれます。

それはふと湧きあがった密通疑惑でした。

相手は松殿僧正・良基、宰子の出産時の加持祈祷をした僧侶で、名門・松殿家出身、宰子とは同族(摂関家の藤原忠通の子孫)にあたります。

二人が引き寄せられたのはいかなる理由だったのでしょうか。

お互いに摂関家の出身、遠く離れた鎌倉の地での生活ということもあり、何か盛り上がってしまったのか……。

良基の年齢は分かりませんが、貞応二年(1223)にはすでに法印になっていたことが分かるので、この時点では壮年かもう少し年上だったと思います。

年下夫にはない年上の男の魅力にやられていたのかもしれません。

宗尊親王は激怒したと伝わります。

宗尊親王は当時の執権・北条時宗や連署ら北条家の面々に内意を通すことなく、京にいる父・後嵯峨上皇に御息所との離縁を含めた自分の意思を伝えました。

木工權頭親家自京都歸參。自仙洞内々有御諷詞等云々。中御所御事云々。

引用:『吾妻鏡』

側近・藤原親家に行かせましたが、このことを知った後嵯峨上皇は、むしろ宗尊親王の身柄を心配したようです。そして父の心配は現実のものとなりました。

当時の執権を無視して上皇に上申するという行動をとった結果、宗尊親王は廃位され、京に送還されることになります。

宰子もまた、まだ3歳であった息子・惟康親王とは引き離されて、娘・揄子女王とともに京に送還されました。

京に送還された後、彼女がどのような生活を送ったのかは、よく分かっていません。

宗尊親王とよりを戻したのか、あるいは良基と生活をしたのか、女手一つで娘を育て上げたのか。

ちなみに良基については諸説ありますが、宰子と引き離された後、鎌倉の地から出奔、高野山にて飲食を断って壮絶な死を遂げたとも……。

また、宗尊親王は京に戻った後は、堀川具教の娘を側室としていたようですから、宰子とは疎遠になっていた可能性もあるでしょう。

宗尊親王は京に送還されたおよそ8年後、文永十一年(1274)に若くして亡くなります。この2年前には出家を遂げていました。

宰子がいつ、どのように亡くなったのかはよく分かりません。

宗尊親王の側室:堀川具教の娘

左中将・堀川具教の娘。堀川大納言・堀川通具の孫娘ですね。早田宮真覚と瑞子女王の母親となりました。

息子・真覚の生年(文永七年【1270年】)や、瑞子女王の生年(文永九年【1272】)などを考えると、宗尊親王が京に帰ったのちに迎えた側室でしょうか。

宗尊親王の死後、彼女がどのようになったのかは伝わっていません。

宗尊親王の長女:揄子女王

文永二年(1265)に鎌倉にて生まれました。母は正室・近衛宰子。

しかし彼女が幼いうちに父・宗尊親王、母・近衛宰子ともども、兄と引き離されて都へと戻ることとなります。

成長した彼女は叔父・亀山天皇の側室となりました。そのことから禅林寺殿(亀山院)の宮の御方と呼ばれていたようです。

しかし、さほど亀山院からの寵愛はなかったようで、亀山天皇が出家後は亀山天皇の後宮から退きました。

亀山天皇の出家後の邸宅となっていた禅林寺にほど近い、当時の洛中から遠く離れた地に隠棲します。

中務の宮の御娘は、もとよりいと鮮やかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふ際とても、取り分きたる御名残りもなかるべし。禅林寺の上の院の、人離れたる方に据ゑ聞こえさせ給へれば、

引用:『増鏡』

しかし、彼女の面倒を見ていた村上源氏の六条有房に懸想され、関係を持ってしまいます。

最終的に彼女は人目に隠れて娘を一人産み落とします。

白川わたり、かごやかにをかしき所用意して、率て渡し奉りつつ、なほ自らは、さすがに世の慎ましければ、忍びつつぞ御宿直しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。

引用:『増鏡』

六条有房との関係は長続きしなかったのか、いつのころからかかつての夫・亀山天皇の息子にあたる後宇多天皇の側室となります。

異母妹・瑞子に比べると寵愛を受けたのか、彼女は一人娘を産み落としました。

彼女の名前は禖子内親王、甥にあたる御二条天皇皇子・邦良親王(瑞子女王の猶子でもありました)の妃となり崇明門院の女院号を得ることとなります。

その母親である揄子女王もまた、女院号宣下こそされませんでしたが、天皇の孫娘ながらに皇后・中宮・女院号に准ずる准三后の地位を得ることとなります。

揄子女王がいつのころに亡くなったのかは分かりませんが、女院・崇明門院の母であり、後宇多上皇の側室でもありましたから、安穏に手厚く生活を営んだのではないでしょうか。

宗尊親王の次女:瑞子女王(永嘉門院)

宗尊親王と側室・堀川具教の娘との間に生まれた末娘・瑞子女王は少し珍しい生涯を送った人物です。

彼女はこれまでの女院の中では、はじめて天皇の孫娘かつ、院号宣下の時点では天皇(皇族)の妃ではないにもかかわらず、女院号を受けた人物でした。

先故中務卿宗尊親王女瑞子三十歳。後嵯峨院皇孫。母堀川故大納言通具孫女。有准三宮宣下。加賜五百戸于本封外。次有院号定。無立親王及叙品等。凡皇孫女院号無先蹤。是為一院御猶子故云。号永嘉門院。

引用:『続史愚抄』

もともとの彼女は、先の上皇の孫娘、先の征夷大将軍の娘として、結婚することもなく独身生活を謳歌していたようです。(当時の皇族女性の多くが未婚であったことも影響していたでしょう。)

しかし、その運命はある日いきなり思いもよらぬ方向に動きます。

30歳になった彼女は、ある日いきなり皇族女性最大の栄誉ともいえる女院号の宣下、そしてそれに合わせて後宇多上皇の妻の一人となることがきまったのです。

というのも、彼女が親族(後嵯峨上皇の又従姉妹)の暉子内親王(室町院)が受け継いでいた膨大な皇室荘園を受け継ぐことになったからでした。

この荘園群(室町院領)は、もともと室町院の義理の弟であった瑞子女王の父・宗尊親王が受け継ぐはずのものでした。

しかし宗尊親王は室町院に先立って亡くなります。

宗尊親王亡きあと、瑞子女王がその領有を主張して、それが通ったのです。

瑞子女王の受け継いだ室町院領は、八条院領、長講堂領といった皇族女性に代々受け継がれてきた膨大な荘園量に比肩するものであり、室町院領の継承者たる彼女の身辺はそれにふさわしいものにと整えられたのでしょう。

そして同時に、当時30歳でありながら後継者(子供)のいない彼女の死後の所領継承を狙って、後宇多上皇(ひいては亀山上皇などの大覚寺統)が結婚を申し入れたものだと思われます。

中務の宮の御女も、押しなべたらぬ様にもてなし聞こえ給ふ。勝れたる御覚えには有らねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号有りて、永嘉門院と申し侍りし御事也。

引用:『増鏡』

政略色の強い結婚であるという経緯もあってか、瑞子女王自身は院号宣下をも受けた高位の女性であるにもかかわらず、後宇多上皇から格別に寵愛されたというわけでもありませんでした。

後宇多上皇は持明院統の皇女で自身の後継者・後二条天皇の義母でもあった・遊義門院を格別に寵愛していたというのも影響していたかもしれません。

ただ瑞子女王自身はその身分もあって、軽んじられることは一切ありませんでした。

彼女は子を産むことはありませんでしたが、後二条天皇の子(義理の孫で、姪・崇明門院の婿にもなるわけですね)・邦良親王の養母にもなるなど、自身の後継者も得ることが出来ました。

元徳元年にもなりぬ。今年はいかなるにか、しはぶきやみ流行りて、人多く失せ給ふ中に、伏見院の御母玄輝門院、前坊の御母代の永嘉門院、近衛殿の大北政所など、やんごとなき限り、うち続き隠れ給ひぬれば、此処彼処の御法事しげくて、いとあはれなり。

引用:『増鏡』

邦良親王は最終的に瑞子女王よりも先に亡くなってしまいます。夫・後宇多上皇もこの時にはすでに亡くなっていました。

また、瑞子女王に受け継がれた室町院領は、持明院統の横やりもあり、大覚寺統と持明院統の折半で継承されることとなります。

とはいえど、30歳まではひっそりと暮らしていた女性が、一気に華やかなシンデレラストーリーへと踏み出したわけですから、それなりに楽しい生涯ではあったのではないでしょうか。

元徳元年(1329)に瑞子女王は亡くなります。その翌年、義理の息子(後宇多上皇の次男)・後醍醐天皇は隠岐へと流されることになりますが、それを知ることはありませんでした。

後醍醐天皇の治世下で鎌倉幕府滅亡、南北朝時代の突入と言った動乱期を迎えることになりますが、その動乱の前に、静かに逝くことができたのは幸せかもしれません。

宗尊親王の長男:惟康親王

宗尊親王と近衛宰子との間に生まれた長男は、鎌倉幕府七代目将軍となった惟康親王でした。

惟康親王は母・宰子から源義朝の血をひいており、源氏将軍の嫡流にかなり近い血筋であったと言えるでしょう。

しかしそんな惟康親王も、父同様に長じた後に都へ送り返されることになります。その時彼は輿に「逆さまに」乗せられるという異常な状態だったとか。

惟康親王の4人(5人とも)の息子はいずれも出家しました。

一人娘は次代の将軍・久明親王の正室となり、鎌倉幕府最後の将軍となる守邦親王を産みます。

孫にあたる守邦親王は鎌倉幕府滅亡後出家し、すぐに亡くなりました。以後の子孫は知られていません。

宗尊親王の次男:早田宮真覚

文永七年(1270年)に、宗尊親王と側室・堀川具教の娘との間に生まれた宗尊親王の次男が、権僧正となった早田宮・真覚です。

同母妹に、瑞子女王(永嘉門院)がいます。

彼は早いうちに出家し、皇室とも縁の深い園城寺・円満院に入室し、権僧正に任じられます。

しかしその後、元応元年(1319年)頃には真覚は円満院から退き還俗し、円満院ゆかりの「早田宮」を名乗ります。

真覚の子である源宗治は後醍醐天皇の猶子となり、建武三年に従三位・非参議にまで上ります。

宗治は南朝の公卿として、征西将軍宮・懐良親王に仕えていました。

宗治は貞和元年(1345)に27歳という若さで、都から遠く離れた鎮西にて亡くなります。

宗治以後、この系統の子孫については詳細は知られていません。

宗治の若さを考えるならば、子供がいたとしても幼いでしょう。おそらく南朝の衰退に伴って、僧籍に入るなどして断絶したのではないでしょうか。

真覚には娘がいたという伝承も残っています。

『太平記』中でもかなり有名なエピソードの一つ、高師直に懸想され非業の死を遂げた美女、塩冶判官の妻(歌舞伎などでは「顔世御前」の名前が有名ですね)は実は、「早田宮の娘」だと伝わっているのです。

是程の女房にだに、国の十箇国計をばかへても何か惜からんと仰候はゞ、先帝の御外戚早田宮の御女、弘徽殿の西の台なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土・天竺にもかへさせ給はんずるや。

引用:『太平記』

『太平記』によると、彼女は後醍醐天皇の後宮に入ったのちに、出雲国の有力武士であった塩冶判官に嫁いだといいます。

ちなみに塩冶判官が室町幕府によって粛清されたのは、この妻が縁で南朝に通じていたのが本当の理由ではないのか?とする説も。

彼女が塩冶判官との間に子孫を残していたのかは分かりません。

ただもしかしたら、塩冶判官の次男の子孫と伝わる伯耆の有力国人・南条氏は彼女、ひいては鎌倉幕府6代目将軍・宗尊親王の血を引いていたのかもしれません。

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