大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、シルビア・グラブさんが演じることでも話題を集めているのが、後鳥羽院の乳母であり、権勢を誇った「卿二位」こと藤原兼子です。
後鳥羽院の長男・土御門天皇の外戚であった土御門通親の死後に、彼女は強い権力を握ります。
本来ならば摂政、公暁が主導するはずの除目(朝廷の官職を任命する儀式)を女官でありながら左右し、また、一方で北条政子とも関係を築くなど、後鳥羽院政期に暗躍しました。
北条政子と並んで語られることもあった卿二位の人物像に迫ってみました。
藤原兼子(卿二位)とは後鳥羽院の乳母
藤原兼子は、後鳥羽上皇の乳母であったことから、後鳥羽上皇の強い信任を得て、権力をふるいました。
ちなみに乳母と言うと、文字通り母乳を与えていた人のことを想像する人が多いでしょう。
しかし、兼子は後鳥羽上皇が生まれた当時は未婚であり、母乳をあげるという立場の乳母というよりは、いわゆる教育係としての役割をになっていたことだと思われます。
彼女は後白河院の寵姫・丹波局と入れ替わるようにして権力を握ります。
その権勢、また彼女自身の親戚関係(これについては後述します)もあって、後鳥羽上皇治世下では、彼女の権力はゆるぎないように思われます。
……しかし、鎌倉との関り、そして承久の乱によって、彼女の権勢は陰りを見せることとなるのです。
藤原兼子(卿二位)の来歴
藤原兼子は、刑部卿・藤原範兼の娘として久寿二年(1155)に生まれます。
ちなみに余談ではありますが、兼子は建礼門院こと平徳子と同い年です。
さて、中級貴族の娘として生まれた兼子ですが、父が死んだことで後見を失ってしまいます。
叔父かつ義兄(父の養子)の藤原範季のもとに身を寄せますが、それでも後ろ盾がないことで、なかなか大変な思いをしたのではないでしょうか。
しかし、姉の範子が平家一門の能円(平清盛正室・平時子の異父弟)と結婚したことで、女官としての道が開けます。
平家との縁により、姉範子ともども、高倉天皇の第四皇子の乳母となるのです。(高倉天皇の第四皇子の母は、もともと平家一族の建礼門院の女房でした。)
後に平家は都落ちしますが、平家によって西海を流浪することになった安徳天皇に変わって即位したのは、兼子が乳母を務めた第四皇子でした。
彼は即位し、後鳥羽天皇となります。
後鳥羽天皇からすれば、幼い頃より母同様に自分を育ててくれた兼子はとても信頼のおける人物でした。
正治元年(1199)に、兼子は典侍という天皇の側近女官の地位につくことになります。
藤原兼子(卿二位)の家族と結婚
さて、ここで話を変えて、兼子の家族について考えてみます。
まずは、姉の範子がいます。範子は最初、平家一門の能円と結婚し、一女を儲けます。
またこの平家の縁で、後鳥羽天皇の乳母の座につくことになります。
能円が平家ともども西国へ落ち延びたあとは、公家の土御門通親と再婚し、多くの男児を生みました。
さて、範子が能円との間に儲けた一女(兼子の姪にあたりますね)・在子ですが、彼女はのちに養父の土御門通親の後ろ盾の元、後鳥羽天皇の後宮に入り、土御門天皇を産むことになります。
また、兼子の養父のような立場にあった叔父・範季にも年若い娘がいました。
兼子はこの娘・重子を養女にし、後鳥羽天皇に出仕させます。後鳥羽天皇の寵愛を受けた重子は、順徳天皇を産むことになります。
さらに重子が生んだ順徳天皇の妻の一人には、兼子の兄・藤原範光の娘がいたりします。
こうしてみると兼子の一族の、後鳥羽上皇の血筋への食い込み方がすごいですね!
さて、ここで不思議なのは兼子自身には子供などはいなかったのか?ということですね。
もしも兼子自身に娘がいれば、その娘を後宮に入れてそうですが、兼子はわざわざ養女をとるなんてことまでしています。
実は兼子は、40代半ばまで、未婚だったため、子供を産むことはなかったのです。
後鳥羽天皇の養育で忙しかったのか、後ろ盾がなかったことでなかなか結婚できなかったのか……そのあたりはよく分からないのですが。
しかし女性ながら後鳥羽院の寵臣として権力を振るい始めた兼子を男たちが放っておくはずもなく……兼子は典侍になってすぐに、権中納言・藤原(葉室)宗頼と結婚します。
宗頼は範子より1つ年上ですでに何人かの子供もいる男性でした。
宗頼は、兼子の甥・久我通光(土御門通親と姉・範子の間に生まれた子)の舅でありましたから、その縁で結ばれたのかもしれません。
あるいは、宗頼もまた父を早くに亡くし苦労したことから、親近感もあったのかもしれないですね。
しかしこの結婚は長続きせず、建仁三年(1203)の宗頼の死で幕を閉じることとなります。
しかし、やはり権勢をふるう女を狙う男は多かったと見えます。宗頼の死の喪も明けないうちから、通親の弟の久我通資など、多くの男性が兼子に言い寄ってきます。
そしてその年のうちに兼子は同い年の大炊御門頼実と再婚します。ちなみに大炊御門頼実は、土御門天皇の正妻・大炊御門麗子の実父です。
頼実は承久の乱後の嘉禄元年(1225)まで存命であったため、離婚していなければ、おそらく20年ほど結婚生活を送ったと思われます。
藤原兼子(卿二位)と土御門通親
時移之後、至于去年猶内府執権、憚思食之間、除目之面猶尋常、於今権門女房偏以申行、
引用:『明月記』
さて、姉範子の夫ということもあり当初は協調関係にあった土御門通親と兼子ですが、実はこの二人の関係はのちのち微妙なものになっていきます。
というのも。兼子の養女格である藤原重子が後鳥羽天皇の後宮に入り、後鳥羽天皇の第三皇子を産んだのです。
後鳥羽天皇はこの皇子を非常にかわいがった一方、通親の義理の孫にあたる第一皇子・土御門天皇に対してはさほど関心を寄せているようではありませんでした。
通親の権威は、「土御門天皇の外戚」ということによるものです。それを脅かしかねない藤原重子、その養母である兼子との関係が微妙になるのも仕方のないことでしょう。
しかしこの二人の対立はさほど長いことではありませんでした。建仁二年(1202)、兼子が表舞台に出てきてからわずか3年後に通親は急死します。
通親の死後、それまで通親が取り仕切っていた除目を仕切ったのは兼子でした。そして兼子の養女・重子の産んだ順徳天皇によって、土御門天皇は皇位を追われることとなります。
北条政子と藤原兼子(卿二位)の関係は?
時政ガムスメノ実朝。頼家ガ母生残リタルガ世ニテアルニヤ。義時ト云時政ガ子ヲバ奏聞シテ。又フツト上﨟ニナシテ右京権大夫ト云官ニナシテ。コノイモウトセウトシテ関東ヲバヲコナイテアリケリ。京ニハ卿二位〔兼子〕ヒシト世ヲトリタリ。女人入眼ノ日本國イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ。
引用:『吾妻鏡』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条政子と「対決」するようですが、北条政子と藤原兼子の関係は実際のところ険悪なものではなかったようです。
東の鎌倉の二位尼・北条政子と、西の京の卿二位・藤原兼子の二人の権威・権勢を指して、のちに慈円は『愚管抄』のなかで「女人入眼ノ日本國」などと称しています。
それほどまでに、当時の人々にとってこの二人の女性の権勢がすさまじいものに 感じられたのでしょう。
とはいえど、この二人が密接にかかわりあったのは実際には建保六年(1218)の1年間ほどでした。
熊野詣と称して上京してきた政子は、子のいない実朝の後継者として、後鳥羽上皇の皇子を据えることを画策していました。
候補者としては、実朝正室・坊門信子の異母姉の子にあたる頼仁親王がいました。兼子は、この頼仁親王を養育していたのです。
兼子も、政子同様に乗り気でした。
このこともあってか、兼子は政子の叙位を積極的に推し進め、三位、そして二位と女性としてはかなりの高位(例えば平清盛正室・時子が「二位尼」でしたね)に政子は上り詰めます。
兼子としてはこれを契機に鎌倉にも食い込んでいきたかったのかもしれません。しかし、後鳥羽上皇によってストップがかかります。
結局、承久元年(1219)実朝死後に将軍となったのは、頼朝の妹の子孫で、まだ幼い摂関家の子息・九条頼経(三寅)でした。
頼仁親王の将軍就任の話も無くなったためか、承久年間以降、兼子と政子の間のやり取りは途絶えたようです。
もしもこのあとも、二人が密接にかかわりあい続けたら、承久の乱で京方は大打撃を食らうこともなかったかもしれませんね。
藤原兼子(卿二位)の死因は?
下人説云、卿二品辰時許遂被終命、門前車漸散了云々、後聞、暁土葬云々、
引用:『明月記』
承久の乱後、兼子は表舞台から去ります。
彼女の親族(従弟で、修明門院藤原重子の弟、藤原範茂など)も死に追いやられるなどしましたが、兼子自身はなんとか京に留まることを許されます。
しかし、一気に権勢を失った兼子に、厳しい現実は絶え間なく襲い掛かりました。
たとえば、後鳥羽院政期に蓄財していたものを兼子は蔵に納めていたのですが、その蔵が強盗被害にあい、財産を失うなどしました。また、時には僧兵のいざこざに巻き込まれたりします。
兼子は承久の乱後8年もたった寛喜元年(1229年)に75歳で亡くなります。この時、すでに北条政子はこの世を去っていました。
かつてのライバルから遅れること3年ほどして亡くなった兼子は、かつての権勢とは裏腹に、ひっそりと土葬されたと伝わります。
死因については諸説あるようですが、一説には頭部の腫瘍に苦しんでいたと伝わります。
また、子供のいなかった卿二位の遺産は、養女格であった修明門院こと藤原重子に送られたといいます。