かたき討ちで有名な曽我兄弟。彼らはかたき討ちを遂げた後、二人とも若くして死ぬこととなってしまいます。
まるでかたき討ちを成し遂げるためだけに生き延びたように、駆け足でその生涯を終えた二人ですが、そんな彼らも若者らしく恋をしました。
ここでは、曽我兄弟の兄、曽我祐成の恋人だったという遊女・虎(虎御前)について紹介します。
虎御前は実在した可能性が高い
曽我十郎祐成妻、大礒遊女、〈号虎〉雖被召出之如口状者、無其咎之間、被放遣畢
引用:『吾妻鏡』
『吾妻鏡』では、大磯の遊女で、「虎」という名前の女が、曽我祐成の「妻」もしくは「妾」という表記で現れます。
曽我祐成は父を亡くし、所領も持っていなかったことなどもあって、武士の女性を妻に迎えることは難しかったのかもしれません。
虎のみが、曽我祐成の妻だったのかもしれませんね。
虎は大磯の遊女だったといいます。
大磯は東海道沿いにあり、当時相模国の国衙を置かれることもあるなど栄えた町でありました。
虎は、大磯の遊女として、武士はもちろん東下りした貴族たちともやり取りを交わすことがあったでしょう。
当時の遊女は、体を売るだけでなく、貴顕と和歌や舞などで交流をすることも珍しくありませんでした。
虎がどのような女性だったのか詳しくは分かりませんが、それなりに学識のある女性であった可能性も高そうです。
実在した虎御前は出家後善光寺に行った
故曽我十郎妾、〈大礒虎雖不除髪、著黒衣袈裟、〉迎亡夫三七日忌辰、於筥根山別當行實坊、修佛事捧和字諷誦文、引葦毛馬一疋、爲唱導施物等件馬者祐成最期、所與虎也則今日遂出家、赴信濃國善光寺時年十九歳也見聞緇素莫不拭悲涙〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
表立って曽我兄弟たちの仏事を執り行うものは、曽我祐成の妾であった大磯の遊女・虎のみだったようです。
虎は三七日の仏事を箱根山の寺院で執り行うと、19歳でありながらすぐさま出家し、信濃国の善光寺へ赴いたといいます。
ちなみにこの時、虎はかな文字とはいえ追善供養のため、故人の冥福を祈り布施を執り行う旨を記した文章を寄進しています。
やはり虎は遊女と言っても、なかなか学識のあった女性だったように見受けられますね。
虎がなぜ善光寺に赴いたのか?それはよく分かりません。
虎、もしくは曽我兄弟たちが、武士を中心に広まっていた善光寺信仰の信者だったのか。それとも善光寺の大本願(善光寺内の尼僧寺院)にて生活を送るつもりだったのか。
虎が赴いた当時の善光寺は、治承三年(1179)の大火災からの再建事業真っただ中でした。
虎御前は、善光寺の近くに「虎石庵」という庵を結んで、日々仏事に励んだとの伝承が残っています。
ちなみに、虎の出家後のおよそ4年後の建久八年(1197)には、頼朝が善光寺に参拝しています。
もしもその時点で善光寺に虎がいたのならば、頼朝の姿を遠目に目撃することもあったかもしれません。
虎御前の父と母
大磯の長者のむすめ虎といひて十七歳になりける遊君を、祐成年頃思ひ染めて、ひそかに三年ぞ通ひける。
引用:『曽我物語』
『吾妻鏡』において、虎の情報としては「大磯の遊女」ということ、曽我兄弟の死後に捕まるも放免されたこと、曽我兄弟の菩提を弔うために出家したこと、といったわずかなことしかわかりません。
ただ、仏事を主宰したこと、仏事の際の寄進文などを起草できるといったことから考えると、それなりに学を知っている女性だったと見受けられます。
もちろん、遊女としての生活の中で、必要に迫られて身に着けた可能性も高いですが……。
『曽我物語』によると、虎は「大磯の長者の娘」とあります。この大磯の長者は、遊郭の女主人だったようです。
虎御前はおそらく、大磯の長者のもとで遊女となるべく育てられたのでしょう。
ちなみに『曽我物語』によると、父親は東国に下ってきた「伏見大納言実基卿」なる公家であったといいます。
その父を尋ぬれば去る平治の乱に誅せられし悪右衛門督信頼卿の舎兄民部少輔基成とて奥州平泉へ流され給ふ人の乳母子に宮内判官家長といひし人の娘なり
引用:『十二支考 虎に関する史話と伝説民俗』(南方熊楠:著)
異説として、『重須本曽我物語』では、虎御前は、平塚の遊女・夜叉王が宮内判官家永なる都の貴人との間に産んだ娘だといいます。
父の宮内判官は、平治の乱で失脚し斬首された藤原信頼の、流罪にされた兄の乳母子だったそうです。
いずれにせよ、虎御前は当時の庶民に比べると、高い教養を与えられた女性であったことは間違いないでしょう。
虎御前に子孫はいるのか?
虎御前は曽我兄弟たちの死後、出家しその菩提を弔いながら一生を終えたといいます。
『吾妻鏡』における遊女・虎もまた、出家しています。
出家後、彼女がどうなったのかはよく分かりませんが、覚悟の出家だったと思われますから、還俗する可能性は限りなく低いでしょう。
ただ、出家時点で祐成の子を妊娠していた……などという可能性はなきにしもあらずです。
ですが、虎御前が妊婦でありながら箱根の山を登り、さらには相模から遠く離れた信濃へ赴いた……というのはやはり無理があるように思われます。
おそらく、虎御前は子孫を残すことはなかったと思われます。